JRのアーバンライナーの範囲(表現は正確ではないかも知れませんが)が福井県の敦賀市にまで広がったのを受けて、長浜以北の滋賀県の諸駅も随分と立て替えが進んでいます。殆どの駅では、「駅前」の発達は見られませんから(或いは衰退したか)、異様に立派な「駅」だけが目立つ「駅」が連なっています。数年前に高月駅を訪れた時には、「イコカ」どころか、Jスルーカードなるものも使えず、帰路長浜駅でカードから入場の記録を消してもらうという邪魔くさい手続きをしたのも今となっては懐かしいことです。
さて、高月駅より歩き始めると、かつては駅前だったのですが今は駅からは少し遠くなったところに神仏習合というものは斯くの如きかと思わせる寺とお社があります(といいながら名前を忘れている)。ここの寺でもそうですが、この辺りは至る所の寺社に「還暦記念」の立派な記念碑が多く建てられています。「おっ!何か碑があるぞ。」と近づいてみると大概がこの還暦の記念碑です。現在では、還暦といってもさほどの感慨もないというところが多いと思うのですが、この地域ではまだまだ大きな意味を持っているようです。少なくとも還暦に備えて貯金はしないといけません。寺には奈良の「せんとくん」のキャラクターデザイナーの方の札も上がっていました。
ここから渡岸寺までの道は、小谷山を前に見たり振り返ってみたりする道です。ここは多少は浅井氏の興亡について考えざるを得ないところです。小生の如き怠け者から見ると、山に籠もる者も勤勉、その山を攻めようとする者はもっと勤勉というところです。浅井長政は悲劇の武将、その父である久政は天下の愚将で遂に我が子を滅亡に追い込んだとされるのですが、これは結果論であって反信長の旗を挙げたときには越前攻めの途中の織田信長を朝倉氏との挟撃によって倒せる可能性の方が高かったと思われます。
渡岸寺はこの辺りでは最も有名な寺であるようです。国宝の十一面観音像は、新しい収蔵庫の中に収められていますが、新しく収められた大日如来座像も見事です。この収蔵庫の管理をされている方も実に気持ちのよい人で、仏の余徳というかそのようなものが感じられます。このあたり一帯は、織田氏による小谷城攻撃の際には、すっかりと焼き払われたそうで、境内にはその折に観音像を埋めて難を逃れたという場所もあります。境内といえば以前は寺の中の小さな建物で「御利益蕎麦」なるものが食えたのですが、今は閉まっています。かつてこの店の店主が泥濘の中から小さな仏像を発見し、これを祀ったところ霊験が誠に顕かであったというところから付けられた名なのですが、以前に入ったときには確かにその仏像が祀られていました。その時既にその店主は故人となっていて、お婆さんが蕎麦を出してくれましたが、体調でも崩されたのでしょうか。「げっ、飯を食うところがない!」と慌てましたが、門前を少し離れた所に山菜そばや子持ち鮎を食わせる店があり、味もなかなかです。
渡岸寺から雨森集落までは、吹きさらしの自動車道をしばらく歩かねばなりませんが、途次写真の高時川の美しい流れを楽しむこともできます。雨森集落に入ると、鎮守の社の見事な銀杏の木が出迎えてくれます。集落そのものもしっとりとしたよい集落で、人々の会話などを聞いていても何かゆっくりと時間が流れている感じです。この雨森は木下順庵門下新井白石の兄弟弟子で対馬の宗氏に仕えて、対朝鮮外交に活躍した雨森芳洲の出身地です。数年前に訪問して芳洲の記した『交隣提醒』等を求めながら未だに読み通すこともせぬ身を恥じつつ、再び芳洲庵に入ります。
外交の基本に「誠意」を持ってきた芳洲の考えは、今も尊ぶべきものですが、果たして現在の北朝鮮や韓国に誠意が通じるのかどうか、等々考えながら庭を眺めていると学芸員の方が茶など持ってきて下さるのには甚だ恐縮します。そんなことを考えながら庭を見ているなどとは夢にも思っておられぬことでしょう。
雨森から石動寺を経て木之本に至る途中までの道は素晴らしい道です。少し雪化粧した己高山(こだかみやま)が右手にずっと見えています。観音菩薩を求める旅ならば、この辺りにも古刹は多くあります。そういう仏像を集めた施設も存在します。木之本に入る直前は自動車道を歩くことになりますが、この歩いている道は北国脇往還でしょう。
木之本も古いものをよく残している集落です。「七本鑓」や「北国街道」などの酒で知られる造り酒屋もちらほらと見ることができます。醤油屋も彼方此方に。近年話題となった「たくわんペースト」を挟んだサラダパンも一時のブームは過ぎ去り、今は店頭に数多く積まれています。木之本の徹底的な徘徊は次回のことにして、地蔵尊を拝した後は清酒北国街道の山路酒造の桑酒を求めに行くことにしましょう。この桑酒の徳利、酒を燗するのになかなか重宝です。
薄暮迫るころ、やはり小生などは生臭いのか、賤ヶ岳合戦の折に岐阜からとって返した秀吉軍がこの集落を通過する。その際に赤々とかがり火が焚かれた中で握り飯などを兵に差し出す人々の姿が幻のように浮かんできます。「柴田めがあおあおと出てきよったわい。」と秀吉の呟きまでが聞こえるようです。秀吉軍は総崩れになった柴田軍を追撃、福井まで押し寄せることになります。ここは長浜まで戻り、浪漫ビールを飲ませる店でで戦話(いくさばなし)等をしながら杯を傾けることにしましょう。
さて、高月駅より歩き始めると、かつては駅前だったのですが今は駅からは少し遠くなったところに神仏習合というものは斯くの如きかと思わせる寺とお社があります(といいながら名前を忘れている)。ここの寺でもそうですが、この辺りは至る所の寺社に「還暦記念」の立派な記念碑が多く建てられています。「おっ!何か碑があるぞ。」と近づいてみると大概がこの還暦の記念碑です。現在では、還暦といってもさほどの感慨もないというところが多いと思うのですが、この地域ではまだまだ大きな意味を持っているようです。少なくとも還暦に備えて貯金はしないといけません。寺には奈良の「せんとくん」のキャラクターデザイナーの方の札も上がっていました。
ここから渡岸寺までの道は、小谷山を前に見たり振り返ってみたりする道です。ここは多少は浅井氏の興亡について考えざるを得ないところです。小生の如き怠け者から見ると、山に籠もる者も勤勉、その山を攻めようとする者はもっと勤勉というところです。浅井長政は悲劇の武将、その父である久政は天下の愚将で遂に我が子を滅亡に追い込んだとされるのですが、これは結果論であって反信長の旗を挙げたときには越前攻めの途中の織田信長を朝倉氏との挟撃によって倒せる可能性の方が高かったと思われます。
渡岸寺はこの辺りでは最も有名な寺であるようです。国宝の十一面観音像は、新しい収蔵庫の中に収められていますが、新しく収められた大日如来座像も見事です。この収蔵庫の管理をされている方も実に気持ちのよい人で、仏の余徳というかそのようなものが感じられます。このあたり一帯は、織田氏による小谷城攻撃の際には、すっかりと焼き払われたそうで、境内にはその折に観音像を埋めて難を逃れたという場所もあります。境内といえば以前は寺の中の小さな建物で「御利益蕎麦」なるものが食えたのですが、今は閉まっています。かつてこの店の店主が泥濘の中から小さな仏像を発見し、これを祀ったところ霊験が誠に顕かであったというところから付けられた名なのですが、以前に入ったときには確かにその仏像が祀られていました。その時既にその店主は故人となっていて、お婆さんが蕎麦を出してくれましたが、体調でも崩されたのでしょうか。「げっ、飯を食うところがない!」と慌てましたが、門前を少し離れた所に山菜そばや子持ち鮎を食わせる店があり、味もなかなかです。
渡岸寺から雨森集落までは、吹きさらしの自動車道をしばらく歩かねばなりませんが、途次写真の高時川の美しい流れを楽しむこともできます。雨森集落に入ると、鎮守の社の見事な銀杏の木が出迎えてくれます。集落そのものもしっとりとしたよい集落で、人々の会話などを聞いていても何かゆっくりと時間が流れている感じです。この雨森は木下順庵門下新井白石の兄弟弟子で対馬の宗氏に仕えて、対朝鮮外交に活躍した雨森芳洲の出身地です。数年前に訪問して芳洲の記した『交隣提醒』等を求めながら未だに読み通すこともせぬ身を恥じつつ、再び芳洲庵に入ります。
外交の基本に「誠意」を持ってきた芳洲の考えは、今も尊ぶべきものですが、果たして現在の北朝鮮や韓国に誠意が通じるのかどうか、等々考えながら庭を眺めていると学芸員の方が茶など持ってきて下さるのには甚だ恐縮します。そんなことを考えながら庭を見ているなどとは夢にも思っておられぬことでしょう。
雨森から石動寺を経て木之本に至る途中までの道は素晴らしい道です。少し雪化粧した己高山(こだかみやま)が右手にずっと見えています。観音菩薩を求める旅ならば、この辺りにも古刹は多くあります。そういう仏像を集めた施設も存在します。木之本に入る直前は自動車道を歩くことになりますが、この歩いている道は北国脇往還でしょう。
木之本も古いものをよく残している集落です。「七本鑓」や「北国街道」などの酒で知られる造り酒屋もちらほらと見ることができます。醤油屋も彼方此方に。近年話題となった「たくわんペースト」を挟んだサラダパンも一時のブームは過ぎ去り、今は店頭に数多く積まれています。木之本の徹底的な徘徊は次回のことにして、地蔵尊を拝した後は清酒北国街道の山路酒造の桑酒を求めに行くことにしましょう。この桑酒の徳利、酒を燗するのになかなか重宝です。
薄暮迫るころ、やはり小生などは生臭いのか、賤ヶ岳合戦の折に岐阜からとって返した秀吉軍がこの集落を通過する。その際に赤々とかがり火が焚かれた中で握り飯などを兵に差し出す人々の姿が幻のように浮かんできます。「柴田めがあおあおと出てきよったわい。」と秀吉の呟きまでが聞こえるようです。秀吉軍は総崩れになった柴田軍を追撃、福井まで押し寄せることになります。ここは長浜まで戻り、浪漫ビールを飲ませる店でで戦話(いくさばなし)等をしながら杯を傾けることにしましょう。
本年も宜しくお願いいたします。
今も昔もわが国には外交を「誠意」をもって臨もうという考えはあるようですね。しかしながら仰るように、朝鮮にはそれは通じないでしょうね。
こんなことを言ってしまったら猛バッシングを受けそうですが、日本にとっての災難は朝鮮が隣にあったことではないでしょうか。
韓国や北朝鮮にはもう「うんざり」というのが大方の国民の気持ちではないでしょうか。雨森芳洲の誠実さは評価すべきかなと思いますが、遠い時代はさておき、室町時代の老松堂日本行録等を読んでいても、基本的なところに「倭人蔑視」の考えがあるために、日本からは何も学び得ていない(農業技術やその他)感じです。この尊大さが李朝後半期の停滞を招いたのだと思います。今の北朝鮮・韓国も根っこの部分は変わっていない気がします。