自分はアニメという媒体が割と苦手である。
その仔細については語らないが、思春期の時期から根付いてしまったこの感覚は外しようもなく、特撮に強く愛着をもつ気質と共に、創作物の見方に重大なバイアスをもたらしている。
だが、そんな自分でも珍しく1クールを完走したアニメがあった。
それが2018年に放送された「SSSS.GRIDMAN」(以下Sグリ)であった。
原作のグリッドマンについてはリアルタイムで見たことがなく、自分にとってのヒーローはウルトラマンティガが最初だったのだが、円谷プロが出したウルトラマン以外のヒーローとして記憶はされていた。
その続編をアニメで作るという試みに当初は懐疑的だったが、Twitterでの評判が非常によかったことから後追いで視聴していった。
すると、自分の先入観を一気にひっくり返されてしまった。「特撮をアニメでやる」というやり口に忠実なアプローチ、それでいて実写では不可能な「ゴテゴテした合体とキレのあるアクションの両立」に魅せられた。
さらにストーリーを通しての謎とどんでん返しに最後まで驚かされ、大いに楽しんだのであった。
しかしそれ以降はまたアニメを見たくない思いが強くなってしまい、2021年に放送された続編である「SSSS.DYNAZENON」(以下ダイナゼノン)については見送ってしまった。
こちらもTwitterでの評判がよかったにも関わらず、どうも食指が動かなかったのである。
そんな中、またグリッドマン関係のアニメをやるという。
更にダイナゼノンとのクロスオーバー映画らしい。
昔見た作品だし見に行ってみるのも悪くないな、でもダイナゼノン見てないし大丈夫なのかなと迷いつつも、やはりここでもTwitterでの評判を見て良さそうと判断し見に行くことにしたのであった。
結果、オールタイムベストにカウントするレベルの映画を目の当たりにしたのである。
「シン・ゴジラ」以来となる、同じ映画を複数回見に行った程度には、だ。4回は過去最多である。
以下、3作品のネタバレを全開で書いていきますのでご注意ください。
本作はどこを切り取っても語るべきポイントが大量にあるのだが、今回は3点で記述していきたい。
更に2回目を見る前にダイナゼノンをアマプラで全話視聴したので、それを踏まえた感想の部分も4点目として記載しておく。
映像面でのカッコよさ
まず本作は怪獣と巨大ヒーローが戦う作品である。
なので、街を破壊し爆発する描写がふんだんに盛り込まれている。
TVシリーズでは音響を意識することはなかったのだが、それが映画レベルの音響になることで一つ一つの爆発と車の吹っ飛びが強烈に耳に響く。
それだけではなく、TVシリーズ以上に巨大感とスピードを強調する構図がふんだんに取り入れられている。
例えばがっぷり4つに組み合うところで下から見上げる構図であるとか、ビルにジャンプで飛び乗って光線をかわすシーンであるとかである。
これにより実写では難しい巨大感とスピードの両立がされており、更に全合体であるローグカイゼルグリッドマンも高速で動きまくる。
ハイレベルな「特撮」映像をスクリーンで見ることは、率直に言って鳥肌が立つぐらい全身が沸き立った。
しかもこのハイレベルな戦闘は都合3回楽しめるし、戦い方は3回とも違うので飽きがこない。
この点は本当に映画館でないと体感できないところなので、これだけでも本作を映画館で見る意義はあると言いきれる。
更にラストの戦闘シーンは、主題歌の使い方が完璧と評せざるを得ない。
ピンチにダイナゼノンが現れる瞬間、静かな歌い出しが盛り上がるダイナゼノン主題歌の「インパーフェクト」が流れ、グリッドマンと合体するタイミングでSグリ主題歌の「UNION」に切り替わり、最後のとどめのタイミングで「uni-verse」がかかる、この一連の流れと合体変形が組み合わさるのである。
しつこいようだがこれは完璧な演出で、映画館で見ることの意義を大いに感じるものである。
キャラの「その後」の感動
ここからはストーリー面でのネタバレを書いていく。
キャラ面から見てみると、本作はSグリの世界にダイナゼノンの登場人物が絡んでくる形のクロスオーバーである。
ここでポイントになるのは、主人公である響裕太はSグリにおける戦いを全く覚えていないということ。
そのため、Sグリ視聴者としても未知の領域であった「響裕太本人の人格がいかなるものであるのか」を本作で知ることとなり、話が見えやすくなる。
話の主軸も彼の告白をめぐる動きが中心となり、観客は彼に感情移入しながら見ていくこととなる。
そして、彼自身の感受性豊かで女性に対してウブな部分と、対照的に危機とあらば自身を捨てることも厭わないまっすぐなヒーロー気質が明らかになっていく。
それこそが作品全体を貫く清涼感として機能し、日常パートでは学園祭に向けた準備に右往左往する様やダイナゼノン組との絡み、本題である告白を巡っててんやわんやする様が微笑ましく見える。
更に危機が迫れば我が身を省みず真っ先に駆け出す様は率直にカッコいいし、応援したくなるものだ。
一方の六花と内海はというと、こちらは当然ながらTVシリーズの延長線上でキャラが構築される。どちらも違和感なく好感を覚える描き方だ。
六花はSグリの冒頭「何か」があって記憶喪失の裕太と一緒にいたこと、そして裕太が彼女に想いを寄せていたのが解決の発端であったと最終話で知ったことから、彼に対して憎からず思っているはずなのだが、今一つ踏み切れない裕太に対してどう考えているのか序盤は読めない。
しかし学園祭の準備を一緒に進めていくのと並行して、再び戦いに巻き込まれた裕太のことを気にかける描写が増えていくと、本心ではもうとっくに答えは出ていて、彼の行動待ちであることが読み取れるようになる。
極め付きは、グリッドマンと一体化すれば世界を救える代わりに確実に自我が喪失すると宣告された裕太が、迷わず一体化を選んだ下りでの「少しは迷ったりしろよ…」である。
アニメでは初めての名前呼びに続いてのこの一言で、戦いに行くのを止めたくはないけど少しは側にいる自分のことを考えてほしい、という複雑な乙女心が如実に出ている。
ここまでお似合いの台詞を言ってしまっては、後輩二人にまだ付き合ってないことを弄られるのもやむなしだと個人的には感じた。
最後のシーンはそんな二人のいじらしさが前面に出ていて、壮大な話の締め括りとしてミクロで幸せな〆に入る作りをキャラの力で最大限に活かしている。
内海については、Sグリにおいてのウルトラシリーズヲタ要素だけではなく、何かしらの人生経験を積んだかのように見える。
明言はされてないが、同級生の女子と二人きりでバッティングセンターに行くのは、もはやそういうことなのだと思う。
自分が役に立ってないことを悩んでいた頃と比べると、ノリの良さは変わらずに裕太と友達でいることが自分の役割だと割り切ったことで、非常に頼りになる雰囲気が出ている。
更に本作最大のサプライズと言える、新条アカネとアレクシス・ケリヴの復活。
Sグリの出来事を経て、アカネが自分のためではなく友のために超越した力を使う展開は、こちらも成長を実感できて非常に良かった。
敢えて六花と話さずにただ触れて元の世界に帰るのも、Sグリ最終回を損なわない出し方で良い。
アレクシス・ケリヴは相変わらず退屈をもて余して楽しんでただけだったのかもしれないが、大ピンチでアカネを分離して自分はマッドオリジンもろとも死を迎えるという行動は、Sグリ本編での悪辣さからしたら心境の変化があったのかもしれない。
おそらく自分が創造力を利用して力にするのは良くても、自分と関係ないマッドオリジンに食われるのは忍びないと考えたのかもしれないが、シンプルに熱い展開なので些末な問題か。
ダイナゼノン組については初見時は未視聴だったため、後の項目に譲ることとする。
しかし彼らの言動の裏側に何があるのか分からなくても、話を止めるような方向性で関わるものではないし、主軸を書き消すような存在ではない。
個人的にはダイナゼノンを見なくても、十分楽しめる領域にあると思う。ただ見た方がより強烈に楽しめるとも考えている。
メタフィクションと創造力
原点である「電光超人グリッドマン」は、グリッドマンという名と姿を与えた善のクリエイターである主人公組と、怪獣をコンピューターワールドに送り込む悪のクリエイターである武史の戦いであった。
どちらもモノをコンピューター上で作るクリエイターが、お互いの創造力で戦力を拡充し戦いを繰り広げる構図である。
特に武史については、日常の些細な不満が怪獣を産み出す情動になっていることが強く描かれ、情動と創造力の関連性が話のきっかけとなっている。
創造と情動が話の主軸になっている点はSグリにも受け継がれ、創造力をアレクシス・ケリヴにつけこまれた新条アカネは情動の赴くままに怪獣での殺戮を繰り返しつつも、度重なる敗北と罪を突きつけられたことで心が折れ創ることができなくなる。
もはや創造力がなくなったアカネは自らの情動を養分とした怪獣にされてしまうが、被造物である六花たちに救われることで決着する。
ダイナゼノンでも、人々の情動が怪獣の種と結び付いて怪獣を形成するという舞台設定があるため、ここでも情動と創造力が関係している。
そして本作では、日常パートのサブの軸として「かつての戦いを覚えている六花と内海がグリッドマンのことを演劇として伝えようとする」という、メタフィクション的な要素がある。
これはまさしく創造力に絡む話であり、最初の台本はSグリの物語をそのままなぞったものであった。
しかし、この台本は「新条アカネの存在が今一つ受け入れがたい」という理由でクラスメイトから否定されてしまう。
メタ的なSグリへの評価という面もあるのかもしれないが、作中の人間からしたら枠外の存在であるテーマを描くには六花と内海の理解が足りてないということなのかもしれない。
その後世界が入り交じるカオスの結果、ダイナゼノン組の要素が取り入れられて娯楽性が増したことで台本は評価を得るが、今度はキャラが増えた弊害でアカネ周りはオミットされてしまう。
六花が本当に描きたいことから離れている気がする、と感じる裕太の懸念はそのまま世界の混乱へと直結し、生と死の境目すら曖昧になる。
「カオスで因果関係がよく分からないけど、キャラがわちゃわちゃしてなんとなく楽しいから良いのか?」と視聴者が思い始めたタイミングで、この時間も生死も曖昧なカオス空間が形成されるため、裕太の「まだ告白できてない!」という焦りが改めて突きつけられるのだ。
ここで作品全体のどんでん返しとして、空想から世界を創造する力が人だけではなくグリッドマンにもあり、それがダイナゼノン世界を作ったことが示される。
更に裕太の六花に告白したいという情動が、世界のカオスに気づかせる大きなファクターであったとも分かるのである。
日常パートの軸が一気に本筋の戦いに加わる構成として、非常に巧みだ。
そして創造力を搾取する黒幕であるマッドオリジンにより、グリッドマンは宇宙そのものとして拡充され、作中に起きたカオスの要因となってしまう。
これを救い出すのが、グリッドマンユニバースの被造物であった蓬と、グリッドマンによって救われたアカネと、裕太だった。
裕太はグリッドマンの被造物ではないが、グリッドマンに「2ヶ月の時間を奪った負い目」という情動を抱かせた張本人だ。情動と創造力は密接に絡むので、それを解決することで問題も解決されていくのである。
Sグリで描かれた「被造物による造物主の救済」と「情動と創造力」の話が合わさり、ここで更に話のテンションを上げて進めていく作りは圧巻だ。
最終決戦では、改めてグリッドマンの創造力から再定義されたダイナゼノンやあらゆる味方が復活し、総力戦の末マッドオリジンを撃破する。
グリッドマンの負の情動によって産み出されたカオスに対し、皆のイメージから新たな姿が構築され、敵を撃ち破るのは原点回帰の側面もあって非常に文脈が強い。
皆の描いたグリッドマンは玉石混淆のクオリティであったが、全てが合わさることによって、単にグリッドマンから怪獣を作るだけのマッドオリジンを倒す力になる。
弱いグリッドマンも、皆の創造力があれば強大な敵を倒せる。
創造力で作られた怪獣を倒すのもまた、創造力であると再び高らかに謳われているのである。
最後、文化祭の演劇がどういうテーマで描かれたのかは不明だが、観客が笑って帰ったことは示されている。
娯楽性を強めるかテーマ性を重視するかの二項対立はあれど、楽しむことができればそれが作品にとって最上のことである、そのようなメッセージであろう。
ダイナゼノンを見たあとでの理解
先述した通り、1回目の視聴ではダイナゼノンを全く知らずに見たので、ダイナゼノン組のドラマはある程度は飲み込めたものの、やはり重みが若干減じていた面は否めない。
なので、2回目を見るまでの間にアマプラで一気に視聴しておいた。
ダイナゼノンは、巨大ヒーローものであったSグリと異なり、合体ロボットと怪獣の対決を主軸にしたヒューマンドラマである。
前作と比較するとSグリは全体を通した謎であるとか、世界観自体が一つの物語を引っ張る縦軸として機能していたのに対し、ダイナゼノンはヒューマンドラマとしての側面が縦軸として機能している。
これがとても重要で、Sグリが描いていなかった「合体時のドラマ」というものを主軸にしているのだ。
実際Sグリ初見時はあまり気にしてなかったのだが、グリッドマンが新世紀中学生が変身するアシストウェポンと合体する際、彼らとのドラマ性が全くない。
折角人格を持っているキャラと合体するのにである。
これは新世紀中学生がグリッドマンの一部で、そこに深掘りすべき要素がないことによるものだと後から分かるので、意味なくオミットしたわけではないのだが。
これに対し、日常生活で躓いている4人がガウマと共に戦って少しずつ協調性を得ていく、その過程として気持ちを合わせて合体するという筋書きはドラマを補強するものである。
戦いの結果としてガウマは再び死を迎えてしまうのだが、4人は何かしらの変化を得るという落としどころは、Sグリと逆にミクロなドラマとして一定の意義を得ていると言える。
さて、ダイナゼノン組の本作における動向は、TVシリーズで得たものを元にSグリ世界へと絡んでいく形になっている。
やはり大きなトピックは「TVシリーズで死んでしまったガウマとの再会」であろう。
特に蓬はガウマに色々と後押しされて様々な問題を乗り越えていった面があるので、死に際の会話すらできなかったことに大きな思い入れがあるのはダイナゼノンを見てよく分かった。
また、インスタンス・ドミネーションを蓬が行使する下りも、本編最終回で「不自由を守るために怪獣使いにならない」と選択した彼が友のために力を使うと決めたことの重み、選んだ不自由である夢芽への謝罪を込めつつ使った意義を深く理解することができた。
夢芽は先に映画でのテンション高い状態を見たので、ダイナゼノン1話でのキャラに戸惑ってしまった。
しかし1クールかけて彼女の内面の問題が解決されていく過程は丁寧で、その帰結として映画での言動に至ったことが分かった2回目は納得と微笑ましさを感じた。
ボイスドラマでは更に暴走が進行していたが、まあそれもあれだけ苦しんだことの反動として考えればおかしくはない、かもしれない。
暦とちせについては、ガウマを除いたダイナゼノン組で最初に映画に出てくる面子なので、初見時はよくキャラが掴めていなかった。
彼らは映画では少し脇役気味だったが、何が二人の後ろにあるのかを描き出したTV版を見ると、暦がまた無職に戻ったことが何とも言えない味になってきたり、ちせが完全に暦の保護者として振る舞っていることに成長を感じたりもした。
そして、カオスの結果としてもたらされたガウマと姫の再会。こちらも初見時では意味をよく飲み込めてなかった。
ガウマがなぜダイナゼノンを駆って戦うのか、という理由の根幹にあったのが姫その人である。
しかしTV版終盤で姫が後を追ったことを知り、もう会えないと悟りながらもガウマは皆の未来を守るために戦って力尽きた。
目的を失っても4人の未来を守るために戦った姿は結果を知っていても悲壮なものであり、だから再会させたのが監督としては野暮に思えたのも分からなくもない。
だが、それはそれとして必死に戦った彼に、カオスの結果としてではあるがこのような救いがあったのは良いことに思える。
単なるファンサービスではなく、既に生と死が曖昧な状態までカオスが進んでいると観客に示す、重要なシーンとして絡めてくるのがまた巧妙なところだ。
この時二人が語る「人として守るべき三つのこと」は、TV版では最後の一つが言えずじまいだったと後から知った。
それが「賞味期限」というのは少しフレーズとして変な感じを覚えたのだが、「賞味期限とはすなわち未来である」という考察を見たとき、とても合点がいった。
ガウマ隊とグリッドナイト同盟は怪獣から未来を守るために戦ったのだから。
もう一つ、アンチ改めナイトがダイナゼノンで何をしてきたかを知ってから見ると、最後の戦いとアカネとの会話にグッと来るものがある。
それはSグリ本編での言動から見ると、本当に長い長い間積み重ねられてきた「赦し」といえる。
造物主として街の破壊と殺戮を繰り返してきたアカネは、自らが憎んだ被造物であるアンチに助けられたにも関わらず、礼を言って別れられなかった。
そんなアンチはナイトとしてダイナゼノン世界を救ってきたが、アカネにご飯を食べさせてもらったことが心残りになっていたとガルニクス回で分かるのである。
そして映画の最後で再会した時、ナイトはアカネの罪を詰るよりも、産み出してくれたことの感謝を語る。アカネはそれに対して髪を触ることで礼を伝えるのだ。
Sグリ本編ではアカネから六花への感謝は伝えられたものの、アンチに対しては何か言う時間がなかったので仕方なかったのだが、このやり取りでアカネの罪の一端がようやく赦されたと感じた。
アカネがアンチにしたことはかなり酷いのだが、同時にアンチが生まれなければナイトとしてダイナゼノン世界を救うこともなかった。
彼女が犯した罪が消えてはいないのだが、彼女が作ったものは世界を越えて救済をもたらしたのである。
ナイトは決して、アカネの贖罪のために働いていたわけではない。
それでも造物主に否定された自らの存在意義を彼なりに考えて、ようやくアカネと向き合って感謝を言えたのだから、アカネにとっての赦しの一つとなったことには違いないだろう。
さて、ここまで長々と各方面からの語りを書いてきたが、正直書ききれないほどの多面的なファンサービスとメタフィクションへの言及と熱量で本作は構成されているので、見る度に新たな発見がなされる映画であると自分は思う。
公開規模が小さいのは唯一の難点だが、劇場で何度も見るだけの意義はあると繰り返し強調して、本稿の筆を置かせていただく。
記事をお読みいただきありがとうございました。
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