城北文芸 有馬八朗 小説

これから私が書いた小説をUPしてみようと思います。

B29 空の要塞

2022-05-08 17:32:41 | 小説「沖縄戦」

 一九四五年四月一日、沖縄嘉手納沖からほとんど抵抗らしい抵抗を受けずに上陸した米軍は南部の丘陵地帯で日本軍の激しい抵抗に会い、犠牲者が増え、征服に手間取るようになった。しかし、少しずつ激戦を制し、日本軍の司令部のある首里に肉薄していった。日本軍の主要部隊が首里から島尻南部の摩文仁に撤退するころになると、米軍は火炎放射器や火炎砲を備えた戦車をつかって、一つひとつの地下陣地や塹壕を破壊していった。嘉手納や読谷の穴ぼこだらけの飛行場はブルドーザーで整地され、駐機場も沢山整備され、上陸から十日目にはある程度使用可能になっていた。しかし、日本本土攻撃用の重爆撃機の基地にするにはさらなる工事が必要であった。日本軍がつくった珊瑚の岩を敷き詰めた滑走路は米軍の重い戦闘機や重爆撃機を運用するには層が薄すぎて、もっと厚くする必要があった。排水設備も不備であった。燃料を貯蔵するタンクなどを建設する必要もあった。五月、六月は連日激しい雨が続き、工事が遅れてしまった。千五百メートルだった日本軍の滑走路は二千メートル以上に拡張され、B29が沖縄に到着したのは八月を過ぎていた。
 B29は日米開戦前の一九三九年に開発が計画され、三年後の一九四二年九月に最初の飛行が行われている。四基のプロペラエンジンを持ち、九千メートルの上空から大量の爆弾を落とすことができた。最長航続距離は九千キロと言われ、遠く離れた場所を攻撃することができた。乗員はふつう十一名で、十二門の機銃と、後部に二十ミリ機関砲を持っていた。機関砲は戦局が日本軍に壊滅的に不利になり日本軍機の迫撃能力がなくなると、撤去された。
 最初はインドや中国内陸部にB29が出撃できる飛行場をつくった。この飛行場建設には現地の何万人もの中国人住民が動員され、石を運ぶなど、人力に頼って早期に建設された。一九四四年六月十五日に中国成都の基地を飛び立ったB29四十七機が夜間九州北部上空に飛来した。八幡製鉄所を狙ったものだった。最長航続距離九千キロとはいえ、それは通常の経済的な飛行での最大値に過ぎず、戦闘モードに入ればたちまち燃料を消費するため、中国からの日本本土攻撃は二千六百キロの距離にある九州までが限界とされた。九千メートル上空を飛行している限り、まず、日本の高射砲の射程外であった。九千メートル上空でB29に追いつける日本の戦闘機もまずいなかった。しかし、目標に爆弾を落とすには低空から落とす必要があった。結局、この時は八幡製鉄所の高炉に爆弾を命中させることはできなかった。B29二機が撃墜され、その他五機が帰還までに墜落し、米軍は合計七機のB29をを失った。中国奥地からのB29の攻撃はうまくいかなかった。その原因はまず第一に航続距離の関係で九州しか攻撃出来なかったことであった。そのために、日本軍は他地域から戦闘機を九州に集め、防衛する体制を強化した。八月二十日の八幡攻撃では山口県下関から発進した屠龍の体当たり攻撃でB29一機が撃墜されるなど米軍は十四機のB29を失った。
 米軍は一九四四年六月十五日サイパン島上陸を皮切りに、七月から八月にかけてサイパン、グアム、テニアンの日本軍守備隊を壊滅させ、飛行場を確保した。B29用に滑走路や駐機場を拡張し、日本本土に向け出撃させるのにはそう時間がかからなかった。十月から十一月にかけて、数百機のB29がマリアナ諸島の飛行場に続々と集結した。マリアナ諸島から東京までは約二千四百キロであり、十分攻撃可能な距離であった。
 十一月、米軍はB29による東京付近の偵察を行い、上空から写真撮影をした。その後B29による爆撃を試みたが、思ってもいない困難のあることがわかった。大量の爆弾や燃料を運ぶため、機体が非常に重くなり、離陸時に墜落するB29も少なくなかった。また、冬期は日本付近の高高度にジェット気流が吹いていることを米軍は知らなかったため、かなりの機体が目的地に到達できなかった。マリアナの飛行場に戻る途中で太平洋に不時着するB29が続出した。また、硫黄島から出撃した日本軍機がサイパン島のB29を破壊することもあり、B29護衛の中継基地として硫黄島確保が急がれることになった。米軍は二月十九日に硫黄島に上陸を開始し、一ヶ月余りの激戦ののち同島を占領した。すぐさま飛行場が整備され、長距離戦闘機ムスタングが配備された。四月上旬には、マリアナから硫黄島付近で合流したB29がムスタングに先導され、東京を空襲に向かった。
 高高度からの爆弾投下では効果が薄いということがわかり、アメリカ陸軍航空司令官ヘンリー・アーノルド元帥は一月二十日、ルメイ少将をマリアナに移った第二十一B29戦略爆撃グループ司令官に任命した。ルメイは中国から八幡攻撃を行なった際、実際に八幡まで到達したB29の数が少ないことに気がついた。また、パイロットは高高度から爆弾を落として引き返したがることにも気がついた。そこでルメイは自ら先頭のB29に乗り込み、先導し、低空から爆弾を落とさせた。司令官自ら先頭に立って危険を冒すのであるから、他のパイロットもそれに続く。そのようにして彼は爆撃精度を上げたのであった。まさに、鬼のルメイとでも言うべき司令官であった。
 また、彼は三月十日の東京大空襲を初めとする、都市部に於ける住宅地を狙った焼夷弾攻撃を命じた人物であった。彼は焼夷弾攻撃を命ずるに当たり、アーノルド司令官に作戦の裁可を求めず、自分の責任で命令を発した。彼はB29の後部にある銃座を取り除いた。そうすることにより搭載する爆弾の量を増やした。そして、昼間の高高度爆撃から、夜間低空爆撃に作戦を切り替えた。
 何人の民間人が死ぬかわからない作戦であった。彼はこの作戦に人道上の問題があることを自覚していたが、日本人が何人死のうとかまわないと考えていた。そのことに関しては少しの同情もなかった。
   (2014年「城北文芸」47号)


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