城北文芸 有馬八朗 小説

これから私が書いた小説をUPしてみようと思います。

春一番part3

2022-04-01 16:36:04 | 小説「春一番」

昨年の暮れ、朝鮮生まれだという三つほど年上の同じ職場の印刷工の高麗という男に、スキーに誘われた。そこで三沢ひろみにはじめて出会ったのだった。そして、おれは、ほどなく彼女らのグループの一員になってしまったのである。彼女は、おれの勤めていた印刷所から歩いて十分ほどの距離にある製本会社に事務員として勤めていた。十九だというのに二十代後半のような大人びた顔をしていた。グループの集まりでは、おれは同じ十九歳の頬にやましいことをしているような翳りの線が見える直子という女の子が好きだった。気紛れな子で、来たり来なかったり。その子が来ないとおれはがっかりした。
 三沢ひろみは熱心な女性で、若いのにグループのリーダーになり、いつも来ていた。もしかすると、毎回来ていたのではないかもしれない。おれには直子が来なかったことが記憶に強く残っていて、そういう時にいつも三沢ひろみがおれのそばにいたような気がしているだけかもしれない。おれには三沢ひろみの薄い唇と、しっかりとした大人びた色白の顔は魅力を感じさせなかった。
 そういう時、三沢ひろみはおれの心の中を読み取ったかのように、
 「わたしだって嫌よ。須藤さんて暗いんだもん。ここのサークルはいい男全然いないんだもん、つまんないわ。清新のサークルなんか一度見せて上げたいわ。いい男が揃っているから」
 と憎まれ口をたたいて目をパチクリさせた。今考えると当時はまだ青年のサークルがそちこちにあって、合流することを今ほど厭わなかった時代であった。
 「須藤さん、ボケーとしてどうしたの」
 「ああ、ごめんごめん。ちょっと考え事してたんだ」
 「水越さんのこと考えていたんじゃないの」
 「いや、そうじゃないんだ。ちょっと会社のことを考えていたんだ。毎日トルエンを吸ってるもんだから、脳細胞が破壊されてるかもしれないんだ。最近、物忘れが激しくて、三歳の子でも知ってるようなことが思い出せないで困ることがあるんだ。もっとも、トルエンのせいではないかも知れないけど。子どものころ買い物を頼まれて、よく頼まれた品物の名前を忘れていたから。もとから悪いことは悪いんだけど」
 「ヤダー。須藤さん非行青年だったの。トルエンてシンナーのようなものでしょう。わたし聞いたことあるわ」
 「会社の仕事で使うんだよ。換気が悪くて、小さな換気扇が天井の隅に一つしかないんだ。これ以上頭が悪くなるんじゃないかと不安だよ」
 「それ以上悪くなりようがないわよ。まあ、換気のことは高麗さんに言って職場で問題にしたほうがいいと思うけど、本当に本当は何考えていたの。男の人は何考えているか掴めないからな。エッチなこと考えていたんじゃないの。それとも水越さんのこと? 水越さんね、須藤さんのこと面白い人だって言ってたわよ。よかったわね。この間、彼女のとこ泊りに行って色々と聞いたわよ。須藤さんて意外にやるわね。彼女、すごく面白い人よ。朝まで寝かせないわよ」
 明るい子だが、どこか心の傷が顔を引きつらせているような気がしてならなかった。
 「やだな。そうじゃないんだよ。おれがあそこに入ったのは見聞を広めるために入ったんで、誤解しないでほしいな。世の男性全体に一般化したんじゃ、真面目なやつがかわいそうだよ」
 「須藤さんが言うのは言い訳けだと思うけど、確かに『若人とモラル』にもああいう退廃的なものを見ないように避けるだけではだめだって書いてあったわ。わたしもこの間、はじめてポルノ映画を見たわ。須藤さんの会社の前にある映画館よ。女一人でああいうところに入るのは勇気がいったわ。何度も映画館の前を行ったり来たりして。でも、どうせここまで来たんだから、勇気を出して入らなくちゃと思って入ったわ」
 彼女はサムタイムを吸っていた。おれはニヤつきながら聞いた。
 「で、どうだった。観た感想は」
 「あんまりひとがいなかったわね。前の方に五、六人いただけだったわ。昔のこと思い出したわ。男の人ってみんなこういうことを考えているのかって、やっぱり恐ろしくなったわ」
 会社の目の前に以前ヤクザ映画などをやっていた映画館が今はピンク映画専門の映画館になっていた。「未亡人下宿」とか「うずく花芯」とか「巨乳軍団」とかいう看板がデカデカと出ていた。興味をそそられたが、会社の直前でもあるし、まだ入ったことはなかった。
 
 夏など昼休みに冷房の効いている校正刷りの部屋へ行って、コンクリートの床に新聞紙を敷き、休んだものだった。印刷機の並んでいる間に若い労働者たちが毛布にくるまって寝ていた。冷房が効き過ぎて寒いのだった。なぜかいつも太田裕美の「木綿のハンカチーフ」がかかっていた。高麗が好きで、いつもテープをかけていたのだった。都会の何とかに染まらないで帰ってと歌っていた。                 (初出誌1990年『城北文芸』24号改題)

 



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