民生住宅といえば、わが住人の中にはこの言葉を嫌う人もいる。民生住宅、都営住宅、公社住宅、公団住宅、この頃は都民住宅というものもあらわれた。この中でもっとも入居者の収入基準が低いのが民生住宅である。確かに公営住宅は住宅に困っている低所得の人たちに低家賃で住宅を提供するものであって、自分で住宅を購入できる収入が得られるようになれば、明け渡しを請求されるようになっている。よく東京都からのお知らせのビラにそういうようなことが書いてある。つまりわれわれはやってあげられているものなのである。肩身の狭い思いがしてもこれではしかたあるまいとおれは思う。
ところが、その低家賃が最近低家賃でなくなってきた。周辺の民間住宅の家賃の水準に近付けるようなのである。民間住宅の家賃の水準に合わされたら、おれの給料の大半は家賃で消えてしまうだろう。住宅を買おうにもおれが一生かかっても返せないローンを背負わされることになるにちがいないので全く手が出せない。
「あそこのスレート工場の裏の都営アパートの人たちはいいわねえ。家賃が安いから相当お金をためているらしいわよ。別荘もってる人もいるんだから。わたしたちの税金を使ってると思うと不公平よねえ」
また番台のおばさんが気に障ることを言っている。中にはそういう人もいるかもしれないが、おれの知ってる範囲では聞いたことがない。家を建てて引っ越す人はいた。といってもマンションに引っ越した人が多い。だが、みんながみんなそういう人ばかりではない。収入が全くない人もいる。それには様々な理由がある。高齢で働けない、病気、寝たきりの親の看病、アルコール中毒、精神薄弱等々。アルバイトでしか雇ってもらえなくて、極端に賃金の少ない者もいる。
「あんな安い家賃のところで四十過ぎても結婚しない人がごろごろいるんだよ。お金がたまる一方だろうね」
と番台のおばさんが言うと、女湯のほうで応える声があった。
「うちの娘も三十五になるのにまだいかないでうちにいるわよ。話をもちかけても、結婚する気がないみたいなのよ。家も狭いし、あんなでかいのがいつまでもうちにいられたんじゃかなわないわ、本当に」
「女の人も男女平等だなんていって男の人と同じように働くようになったから、今さら亭主の機嫌をとって暮らせますかって言うんじゃないの。そういう若い人が増えてるって週刊誌に書いてあったわよ。男の人の方もね、外食はできるし、お弁当屋はあるし、コンビニやスーパーでレトルト食品は売ってるし、洗濯だって洗剤を入れてボタンを押すだけで時間がたてば自動的に脱水されてあとは取り出すだけになってるんだもんね。便利な世の中になったものよ。結婚なんかしなくても何も不自由なことはないのよ。ソープはあるし、ファッションヘルスはあるし、何でもありの世の中よ。女なんか要らないわよ」
「よく知ってるじゃないの」
「週刊誌に書いてあるのよ」
「独身だったら働いたお金を全部自分一人で使えばいいんだもん生活は楽だわよ」
「うちの子なんか毎年海外旅行に行ってるわ。去年はモルデイブでしょう。今年はセーシェルにいくんだって」
「セーシェルって聞かないわねえ。どこにあるの」
「インド洋にある島らしいんだけど、うちの子はスキューバダイビングが趣味で海に潜りにいくのよ」
「親と一緒に住んでいれば家賃は要らないし、食事は作ってもらえるし、住み心地が良すぎていつまでも行く気にならないのも無理はないわね」
「本当よ、うちの子なんか食事代だって月二万円家に入れるだけなんだもの。あとは好きに使っているわ。それでも足りないっていってるわ」
天井に据えられた大きな扇風機がゆっくりと回っている。涼しくて気持ちがいい。腕や背中に入れ墨をしたおじいさんが脱衣場から洗い場に入っていった。半袖のシャツを着るとちょうどそれが見えないようになっている。
「若い人は自分が楽しければそれでいいのかもしれないけど、そのうち親も年取るし、結婚する人が少なくなって、どんどん子どもの数が少なくなったらどうするつもりなんだろうね。いくらお金を貯めたとしたって子孫がいなかったら自分が年取った時介護してもらえないだろうにね。だいたい、その時になったら、子どもをつくらなかった人は介護の割り当てなんか受けられないわよ。なんでもお金で解決すると思ったらおおまちがいだわ。最近は何でもお金っていう風潮がいけないのよね。国際貢献もお金だけだせばいいようなことをいう人がいるけど、それで日本は国際社会からばかにされてるっていうじゃないの。若い人を一定期間自衛隊に入れて、社会に対する貢献を身をもって体験させれば少しは考えるようになるんじゃないかしらね。そうでもしなかったら、これじゃあどうしようもなくなるわよ。結婚しない人とか子どもをつくらない人には特別に高い税金を徴収してやればいいのよ。そうでもなければ、私なんか子どもを三人も産んで育てたんだから、不公平だわ」
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