城北文芸 有馬八朗 小説

これから私が書いた小説をUPしてみようと思います。

春一番part1

2022-04-01 16:44:52 | 小説「春一番」

 おれは何に対して怒っているのかはっきりわからなかった。つらい生活に対してだろうか。つらいと思うから余計つらく感じるのだろうか。それとも、自分の希望がかなえられないことに対するいらだちだろうか。 神田の三省堂書店の中は若い人たちでいっぱいだった。近ごろの若い人はテレビの発達で本を読まなくなったというが、ここにいるとそんなことが嘘のようだった。
 文庫本のコーナーでSの小説を捜したが、なかなかみつからなかった。 ちょうどおれの隣で、若い女子大生風の二人連れが、すんなりとした美しい指を本の背表紙にからませながら、やはり何かの本を捜していた。若い娘というだけで華やかさを感じさせ、おれは見るともなく彼女らに注意を向けていた。
 「先輩がね、この本とっても面白くてためになるから読んでみなさいって勧めるから読んでみたのよ。ほんとに、とても面白かったわ。そうしたら、友だちも大勢読んでいて、みんなすごくよかったって言ってるのよ」
 「あっ、これ知ってるわ。わたし、この人の本五冊持ってるわ」
 「この人の本は十冊以上も出ているのに、何でここには一冊しか置いてないんだろう。信じられないわ。わたしたちのこと無視されてるのかしら。もっと置いてあってもいいわよね」
 女子大生らしい二人連れは去って行った。
 今の若い娘はどういう本に関心を持つのだろうという興味で、おれは彼女らが取り出してみた文庫本の戻った位置を横目で見ていた。ピンクの帯の本で目立ったので、容易におれは見当をつけることができた。おれの捜している本もなかなかなくていらいらしたが、こっちのほうは余り知名度のある本ではないのでなくても仕方がないと思った。
 彼女らが立ち去った後、おれはそのピンクの帯のついた本をクリーム色の棚から取り出してページをめくってみた。題名は「結婚ゴー」となっていた。題名からしてうきうきするような題名であった。おれは、この本の何が彼女らに受けるのだろうかと思った。まず、最初の出だしが、ともすれば批判的に評される現代の若い女性の生き方の傾向を肯定するところから始まっていた。三高指向という、学歴、身長、収入の高さを結婚相手の男性に求めることを当然だとする。強さ、安定を求めるのは厳しい社会であれば当然で、賢明な選択だと言う。わかるわかる寄らば大樹の陰だ。男性だってこういう女性の選択を非難できる筋合いはない。男性だって、女性を器量の善し悪しで選んでいるのだ。
 器量のいい女性や魅力のある女性は結婚をするのが早い。それも決まって次男や三男である。いい条件の男性と結婚してしまう。そういう人が結婚するたびにああうらやましいとわたしは思っていた…。
 ところがところが、いい女が条件のいい男姓と結婚したおかげで、わたしのような十人並みの女でも、見てくれは別として、思いやりのあるすばらしい男性と巡り会うことができたのだ。本来ならわたしのような女にはとても得られないような男性が残っていたのだ。だから、うらやましがるどころか、いい女に感謝しなければならないくらいだ。
 そして、何年か経ってみると、長男であるわたしの夫の両親はポックリと亡くなり、家だけが残った。次男の理想的男性と結婚したわたしの美しい友人は長男夫婦が海外に赴任し、夫の両親の面倒を見なければならないはめになり、こんなはずじゃなかったとこぼしているなどと書かれてあった。
 なんだ、要するに条件の悪い男性と結婚しなければならない女性に勇気と希望を与える本なのだ。若い人の傾向を単に批判するのではなくて、だれしも考える傾向として味方になって考えている。そして、現実の自分の体験を示し、現実は思い通りにならない意外性に思い至らせる。損なクジを引いたかに見えた普通の人が逆転の大ホームランをかっとばすのだ。
 なんだ、よく考えてみると、いいことあるから早く結婚せいと言ってるだけなのだ。
 三省堂を出て、商店街を歩いて行った。パチンコ屋の前を通った。正面のガラスが全面マジックミラーになっていた。パチンコ屋を通り越したおれは、抗しがたい内なる力に引かされてポルノ書店に入って行った。悪いことをしているような暗い気分になって中が見えないように目隠しされた自動ドアから出てきたおれは、運悪く、知り合いの三沢ひろみとドアの前でばったり会ってしまった。
 「あら、須藤さんじゃないの。こんなところで何してるの?」
 と彼女は言うと、じろっと店の方を見た。聞くも恥ずかしそうな宣伝文句が書店のドアに張りついていた。
 「あ、面白そう。ちょっと待ってて、見てくるから」
 と言うと彼女は目隠しのドアから中に入って行った。
 つくねんと立ってもいられず、歩き始めると、彼女は逃さないように片方の目で表を見ていたらしく「待っててって言ったでしょう」と叫びながらすぐに出てきた。頬を引きつらせ、右目を軽くけいれんさせていた。
 「ああ、いやらしかった。女性を馬鹿にしているわ。男の人ってどうしてああいういやらしいものが好きなのかしら。須藤さんもやっぱり男の人だったのね」
 彼女の無理して笑った頬が神経質に引きつっていた。
 「何事も勉強だからちょっとのぞいて見ただけで…」
 おれは目を伏せて頭をかいた。
 「馬鹿、こんな勉強があるか。ちょうどよかった。話があるからちょっと来なさい。時間あるんでしょう」
 生まれてくる性を間違えてしまったような二人だった。
 こんなわけでずいぶん年下のくせに姉のような口をきく三沢ひろみから道徳教育を受けるはめになってしまった。
 彼女は平らな靴を履いているくせにおれよりも上に目があった。まだ十九だというのにおれよりも老けて見えた。
 三省堂書店の中に入ると若い人の洪水だった。これを見ている限り、世に言う活字離れ世代とは思えなかった。
 最上階にあるカフェテリアで彼女は紙袋から本を一冊取り出しておれの目の前に置いた。それはFの『若人のモラル』という本だった。
 「今度この本の読書会をやろうということになったのよ。須藤さんもこれ買ってちょうだい」
 と彼女は言った。色白の細長い指をした両手を引っこめて、エヘヘと笑った。顔面神経痛のように片方の目をパチクリさせるところを見ていると、心に何か引っかかるものがあって、それが時々ショートして火花を散らしているようにも思えた。
 「『若人とモラル』か。おれ、この本一度どこかで読んだよ」
 「あたしもそうよ。でも、もう一度ちゃんと学習して討論するのよ。あたしなんか、この続編も買ったのよ」
 なんだよ、学習ってだれかさんの収入を増やすだけじゃないのかよと独りごちながら、おれはその本を手に取って見た。
 「今時キリスト教みたいなこと言ったって白けるだけじゃないか。婚前交歩は是か非かなんてこれに書いてあるぜ」
 おれは、高校生の時、週に一度教会に英会話を習いに行っていた。その時、そこの牧師に聞かれるまま、おれの親父は悪い男で、飲んだくれで借金をしてギャンブルや女遊びをして家庭を苦しめた男だと話した。幼いころ大人が話していたのを立ち聞きしたもので本当のことはよくわからないと言ったつもりだったが、その牧師は─その悪い親の血があなたのからだの中にも流れています。気をつけないとあなたもきっとお父さんのようになってしまいますよ。必ずなりますよ。あなたはお父さんの汚れた血を持っているのです─と言うのだった。
 おれは自分のことを親父とは違うと思っていた。おれは親父とは違う一個の独立した人間であって、親父の顔すら憶えていないくらいだから親父の性格がおれに影響することはありえないと思っていた。それなのにこの牧師は嫌なことを言っておれを脅かしているようにも思えた。親父が悪いということとおれとは全く関係ないのになぜこの男はおれも悪くなると予言しておれを苦しめようとするのか、腹が立った。
 おれはその教会で聖書の話を聞き、なぜだかわからなかったが、バスに乗って家路に帰るころには心を洗われたような清らかなすがすがしい気分になっていた。
 暗い気分でポルノ映画館を出てきた時など、親父の血がおれのからだの中を流れていることを感じた。親父と同じ血がおれの中を流れている。あれほど嫌いだった親父の血がやっぱりおれのからだの内を流れていたのだ。
 反吐を吐きそうなぐったりした気分で、明るいお天道様にまともに顔向けできずに頬を引きつらせておれは大抵ポルノ館をあとにした。
 「そうね、わたしも読んだけど、ちょっとこういうふうにはできないって感じね。でも、わたしは高校生の時に信頼していた人に裏切られたのよ。外見は老けて見えるけど中身は全然ねんねだったの。びっくりして、それ以来男の人と素直になれなくなったの。だから、やっぱりモラルって大事じゃないかって思うの。純真な女の子の心に傷を残すんですもの」
 と彼女は言って冗談っぽく頬笑んだ。片方のまぶたが顔面神経痛のように瞬いていた。


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