一句鑑賞

博多ん噺を・・

書くことが多すぎても書けない状態でした。

1月31日は・・博多の昔を書いていたのですが、私的な部分が多すぎてアップしませんでした。

きっかけは、古い物を整理しているといろんなものが出てきます。それを見ていると記憶が蘇り、祖母などからの話が私の中で一つの物語みたいに展開していくのです。

祖母の実家は今の博多区呉服町で博多人形店でした。正確にはお弟子さんが20名ほどの人形工房です。博多人形中興の人と言われる白水六三郎です。白水の家は黒田藩の医者でした。六三郎はとても医者には成りきらんけん、と別の道、人形師の世界に入ったそうです。当時は一体一体粘土で作り上げていたものを、石膏型を起こして量産が効くように工夫したのでした。そして人体の研究のために九大の解剖学に学んだそうです(医者にはならんで)。パリの万博などにも出品したそうです。また大正皇后様にも献上したそうです、これには続きがありましてお気に召されてずっと飾ってらっしゃたのか色がくすんだりしてきて、もう一体「同じ人形を」との仰せがあったそうです。政策に入るときは身を清めて、食事も弟子たちとは摂らずに一人籠って制作したそうで、それを持って皇居へ行ったそうです。また万博のことですが、出品してから一年かそこら過ぎたころにかなりな金銭が送られてきたそうです。ヨーロッパで好評だったのでしょう。

今の東区千代に大博座という芝居小屋があり、歌舞伎役者などの来演があってたそうです。団十郎か誰かは知りませんが、役者さんの人形を作っていたそうで、それを貰った歌舞伎役者さんは大喜びだったそうです。そのせいか祖母などは芝居小屋に通っていたと話してました。

なぜこんな話をといえば、その人形師の羽織がわが家にあるのです。祖母に祖父のために持たせたのでしょう。その羽織の裏が粋なんですね・・・

そこからの連想ですが、実際に祖母の兄や姉から、また母からもいろいろと聴いてきたことが一つの話として繋がっていくのですね。

話の中に出てくるお寺や芝居小屋(後の大博劇場)などは実際に見ていますし、人形師の墓のある蓮池の寺には母ともお参りしました。

祖母の兄や姉からもずいぶん可愛がられたことを思い起こしてます。もう親戚でも知る人が居なくなってきてます。この場に書いてみてもどうってことないことですが、記憶のあるうちにメモ代わりにと思ってます。いつか長い物語を記して息子娘に残しておきたいのです。

その序章としてですかね(笑)

東区の志賀島へと湾に伸びた砂嘴の根元が和白干潟・・・そこから博多の街へと海岸線は松林が続いていたそうです。

和白から湾沿いに下ると香椎浜、その浜から南に樟の並木が続いて小高い山のふもとにあるのが「香椎宮」。ここは3世紀初めのころよりの仲哀天皇神功皇后、武内の宿禰の話があり後に創建されたのです。

香椎浜から博多方面へ行くと多々良川に出会います。この辺りが名島という地名で一つの交通の要所だったようで、昔から城があったようです。黒田長政が福岡に来た時にその城跡に入ったのですがどうも地勢的にも良くないと判断して、今の中央区城内に福岡城を築きました。

名島から香椎と抜けて行きますと、箱崎浜に出ます。

 

ということで長くなりますので今夜は、ここまでにしておきます。箱崎浜の続きはいつになるやろう?またの機会に。

おやすみなさい

明日は強い南風と雨の予報。明後日だったら春一番?気温も18℃だそうで・・・

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