一句鑑賞

いつの世も正義はどこかな?

6年前のスマホ画像です・・・(-_-;)画質が今のスマホとくらべて( ;∀;)

ここは秋月でもディープな場所で、案内看板の文字は読みづらいでしょうが。

要は秀吉の九州征伐(?)に対して薩摩と手を組んでいた秋月藩は・・・

物見ではないが中国路を西進してくる秀吉軍を偵察に行った、秋月藩士がその威容に腰を抜かしたかは知りませんが・・・・とにかく勝ってこない!と感じて秋月藩へと戻り、とても勝ち目はないので、和睦か秀吉軍に下ったらと進言したところ・・・・わが方には薩摩がついておる、そなたたちは怖気づいたのか!!と上役などから叱責されたそうです。今の世もありそうなことですが。

で、秀吉軍を見たこともない説明をしてもどうしようもないと思ったかは分かりませんが、、、、そこまで偵察をし報告(上申)をしたのに受け入れられなかった藩士は、この大きな岩の上で腹を召されたそうです。

家臣として懸命に藩の存続を願ってのことだったので無念の切腹だったでしょう。

話しは変わりますが、その時の立花城主といえば宗茂さんですが、薩摩軍を追い落とし散々に手柄を立てて秀吉さんから大いに称えられたそうです。

福岡市の東側の立花山から・・・三郡山系から・・・朝倉郡の秋月山地あたりに戦国時代は決戦が行われたのでしょう。

私の居ります宇美町はその時代、たぶん薩摩藩に与する軍勢などが駐屯していたのではと思います。宇美八幡宮は・・・室町のころに時の足利幕府から大切にされて、実に瀟洒な社殿を構えていたそうです・・・当時の絵図があるそうです。

つまりは、足利尊氏が九州で兵を整えていわゆる政権というか征夷大将軍となったわけです。そのときに戦勝祈願をしたのは太宰府天満宮だとTVや一部歴史家の言の葉を聞きますが・・・これはいかに(笑)

菅原道真公は当時、最上級の文官であったのを大宰府に流されていて、都で災害が起ろうものなら、道真公の仕業と言われたぐらいですので、戦勝祈願はしなかったのではないのかと推察。

ですぐとなりの宇美八幡宮は応神天皇の生誕の地として、平安の世には都から安産祈願の使者が参内していた・・・この辺はまた後日に。

で尊氏さんもこちらで戦勝祈願をし天下を治めるようになり、その御礼として社殿の改築、応神天皇の母、神功皇后の像を奉納したいます。

この神功皇后像のお顔は明治新政府の下に行われたわが国最初の紙幣発行、100円だったか・・・その肖像に選ばれた神功皇后のモデルとして、イタリアの絵師によって模写され紙幣となりました。イタリアの人が描いたので西洋人ぽいですが、実際の像も西洋ぽいですよ・・・25年に一度の御開帳でみたのですけど。

 

長くなりましたので、私の身近なことを書きました。こんなこと町内の人は誰も知らないでしょうね・・・ってことでおやすみなさい

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