さて博多のことというか博多湾などを含めた周辺のお話しですが。
箱崎浜まで博多の街に近づきましたが、ここで振出しに戻ります。
海の中道という砂嘴、和白干潟から志賀島へと伸びております。その砂嘴もいよいよ切れてその先に周囲20キロ弱かな?志賀島があります。
松浦半島を西から流れてきた対馬海流は、糸島半島に沿って東進して能古島と西区姪浜(めいのはま)の間を抜けて博多湾へと流れ込みます。湾の奥が和白干潟となり海流は滞っています。
本来の流れは能古島と志賀島の間を勢い良く抜けて玄界灘へと大きく広がって流れて行きます。
蒙古来襲のときは西区の方から湾岸に、塁を築きました・・・防塁(ぼうるい)ですね。路面電車の電停の名に防塁前があったと記憶してます。
激しい戦いがあったわけですが、有名な神風が吹いて蒙古船団がことごとく波に飲まれてしまいましたね。流れつく蒙古兵の遺体を葬ったのが、蒙古塚として志賀島に残っています。
志賀島には例の金印が出土しましたね。志賀島の突端に近い勝間という所です。金印公園もありまして、近くにレプリカを展示した場所もありました。本物は市立博物館だったかな?
志賀島は安曇一族が支配していたそうです。操船に長けて漁を主にしていたのですが、ある時期にやはりどこかとの争いのために、志賀島を出ます・・・詳しくは一度読んだきりですので書けません。どうぞ安曇と志賀島で調べてください・・・無責任ですみません。
それで中心人物をはじめこの島を船で抜けるのです、というか新天地を求めて出たのですね。
航跡は?・・・やはり対馬海流に乗ってだったと想像しています。
北九から中国地方の山陰側を良港というか、農漁業が成り立ちそして安全な地を求めてだったでしょうね。一説によると立ち寄った入江や湾に暮らす人々に、操船や漁を伝えながらともいわれています。
山陰からさらに日本海側に沿って上って行ったのでしょうね。海沿いだけではなくて内陸へも入ったのでしょう。安曇という名がありますね。琵琶湖にそそぐ川に安曇川があるそうです。また長野は安曇野があります。
安曇はいつからこの漢字を使っているかは知りませんが・・・
安らかに、日も雲もと読めます。照り過ぎても曇りが続き雨風が強くても漁にはよくない。天安らかにということでしょうか。
文化とか文明とかは地理的事情をともに考えると面白いなと思います。志賀島を出ていかざる理由はあったにせよ、持っている操船や漁など文化が各地に残っていった。
志賀島の一族も、大陸や半島からの文化を基にして栄えてきたのでしょうね。
その志賀島を中学3年生の時に友人と自転車で一周したことがあります。わが家からは往復は7、80キロはあったと思います。
志賀島の頂上は見晴らしがよく展望所もあります。博多の街も湾を望んで立てば、左手には宗像氏への海岸と玄界灘。回れ右ではないけど真後ろには対馬から半島方面です。
古代のこの島は、他国から日本への入り口の目印ともなっていたでしょう。
次は箱崎辺りのお話しにしないと、脱線したまま何処に辿り着くか分からない話となってしまいそうです(-_-;)
追記:志賀島への海の中道、左手に博多湾が見えるところから1キロほど直線道路です。若いころはぶっ飛ばしていました、ここだけの話です(-_-;)