一句鑑賞

25才のあなたは?

どうも私は母方の記事が多い・・(笑)

今夜は父の話を少しばかり・・・これでバランスが取れるかな?

父は大正7年、福岡県宗像郡東郷町平井に生まれました。約100年前ですね。

東郷町は今は宗像市となりました。

父の里は男子が生まれずに婿養子をとっていました。

父の父は玄界灘に面した勝浦という地で大工をしていた家から、東郷の平井のY家へ婿入りしたのです。

名前は政夫と言いまして、奇しくも母の父と同じ名前でした。

この勝浦の家は、父が子供のころの夏休みを過ごした場所でした・・・海が目の前ですから連日のごとく泳いでいたと話しておりました・・・また実家の人からは可愛がってもらったと。

その父が85才のときに今の町内の日帰り旅行で、勝浦の傍の神湊(こうみなと)の割烹旅館へお魚を食べに行ったときです。私に出て来るようにと指示していましたので行きますと・・・その父の父の実家へ車で向かわせたのです。

行ってみますと狭い道の片側は松林でその先は砂浜から玄海の青が広がっています。家に着きますとあいにく留守でしたが、すぐ横の兄弟筋のお宅を訪ねてみますと、快く迎えていただきお仏壇にお参りさせて頂きました。

父は何も言いませんでしたが、心は満足していたと思います。

また海岸へ出る狭い道を教えますので、海まで行こうかと言いますと・・・肺の病気がありましたので長く歩くのが駄目でしたので、行かずじまいでしたが、そういったことを私に伝えたことで満足だったのかもしれません。

子供時分から海で泳いだり相撲をとったりして体力は盛んだったようです。村相撲といいますか、村々で祭りなどに併せての奉納相撲大会にでては勝ち上がり、商品のブリキのバケツなどを貰ったことを聞かされておりました。

旧制宗像中学に進み、部活?は篭球部(ばすけ)に入りました。福岡県大会では2年連続優勝し3年連続だと優勝旗を返還しなくていいというときに、私の母校に負けたのだと笑いながら言ってました・・・私はそのバスケ部でしたので余計に(笑)・・・私の試合を父は身に来ていたらしいのですが(-_-;)

宗像中を出て八幡製鉄所に勤めていましたが、戦時色ですから陸軍予備士官学校へと進みました。卒業し准尉格でしょうか福岡の連隊に赴任。今の福岡城跡の平和台と言ってました。練兵場などでいましたが兵を連れて、今の私の町にも訓練などで行進してきていたそうです・・・

その雄姿というのでしょうか、軍馬に乗った姿が見事だったので、母の結婚相手にどうだろうかという話が持ち上がり、婿養子となったのでした・・・のちに戦後ですが私たち3兄弟が生まれます(笑)

私が子供のころ、父の話は戦争の話しばかりでした。

北支のかなり広い範囲の独立守備隊の隊長でした、このころは中尉かな?隊は二百数十名の兵隊さんで成っていた。守備範囲が広いので数カ所に砦てきな場所を設けていたなど・・・敵は?国民党と共産軍ですね。

豪放な性格の父は、部下を伴わずに村の酒家へ出かけたそうです。部下は襲われるといけないので行くなと止めたそうですが、ピストル一つを腰のフォルダーに入れ馬に乗って行って、お酒と料理を食べたそうです。これは父の考えの一つでして、人としては何らこだわりを持っていないところを見せるためだったと言ってました。

怖くなかった?と聴きますと、少しはな(笑)

隊も礼儀正しくしていたものですから、現地の人々とは、危ない関係でもなんとか保てたのでしょう。

その隊の演習練兵はあるわけですが、角力の得意な父が・・・誰か、私と相撲をとって負かしたら本日の演習は中止にする・・・で大体は勝っていたようですが、一人強い兵隊さんが居て負けたこともあるとか(笑)

それから朝礼時に、いわゆる訓示でしょうが、その中で誰のために兵として戦っているのか?と質問すると、はい!畏れ多くも天皇陛下の・・と応える兵に、嘘を言うな!と、自分たちは自分たちの家族のために戦ったいるのだと話したそうです。

しかしながら周囲は敵だらけです。隙があれば隊へ攻撃をかけてきます。

K軍と数百メートルの距離で対峙したときは大変だったと・・・こちらは塹壕、向こうも隠れて防御している。考えられる作戦は突撃しかない。少尉などが突撃を進言するが・・・命令はできなかった。独りでウィスィーをかなり呑んだと・・・よし!と決断して突撃の命令を出して進むと、敵は夜に紛れて引いていたと。

この話をするときに父は、その時は25才だったんだと言うのですね・・・兵が弾に当たって死ぬかもしれない、その命令を簡単に発することは出来なかったと。

長くなりましたがこれで・・・

終戦となり、現地で父のことを情報などでも見ていた郭沫若の実兄さんから、山本大尉(父)に、中国に残って国づくりに力を貸してくれないかと言われたそうです。しかし部下を日本へ無事に返すのが第一だからと戻ったのですが。帰ってくるときのことはあまり話しませんでしたね・・・かなりと言いましょうか、とても大変だったとだけ言いました。

現地に残っていたら俺は生れてないよねと言いますと、笑ってました・・・87才で15年前に亡くなりましたが、親父は越えられません。

 

今日も昔ばなしで濁しておりますm(__)m

しかし記事のタイトルはどうしよう?こんな時代噺にふさわしいのは?

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