ハイナンネットメンバーの1人による沖縄本島南部・宮古島の戦跡報告です☆
今回の旅行の目的は、沖縄にある基本的な戦跡・慰霊碑や、自分が取り組んでいる日本軍「慰安婦」に関する場所などを訪れたいという気持ちから4月5日~12日の予定で、沖縄本島・宮古島へと行きました。沖縄本島の戦跡では、海軍司令部壕、ひめゆり平和祈念資料館、沖縄平和祈念公園などを平和ガイドの方に案内していただき、その次の日は対馬丸記念館、南風原文化センターと南風原陸軍病院壕を見学しました。
沖縄本島の戦跡で印象的だったのは、南風原文化センターと南風原陸軍病院壕でした。南風原文化センターでは、壕内をイメージしてつくられた通路と二段ベッドの模型が展示されていて、その中で気管支切開され、上のベッドで横たわっている日本兵の模型が心の中に残っています。また、南風原の満州開拓団の状況、南風原にある「慰安所」の状況、沖縄戦の障害者達のことが具体的に書かれていたことには感動しました。また、説明パネルだけでなく、注射器や軍隊手帳といった当時の現物や南風原教育委員会が作った報告書などが多かったことには驚きました。この時は時間がなく、全てに目を通すことは出来ませんでしたが、平和教育に対する熱の入れ方が違うなということをまざまざと見せつけられたような感じがしました。
病院壕は、とても狭く暗く、南風原文化センター内で見た二段ベッドの模型がさらに壕のスペースを埋めていたと考えると、当時はこれよりももっと狭い状況だろうと想像され、ぞっとしました。米軍の火炎放射器で変色した土壁や、ベッドの上の段に寝ていた朝鮮人兵士が天井に書いた文字跡から、米軍の攻撃のすさまじさや、壕の中にいた人達の気持ちが伝わってきました。壕案内の方から証言者(当時、住民で壕に入っていた方)が言うには、匂いが表現されていないといった話や、それはまるで、ネズミの腐った死骸を鼻に押しつけた感じであり、それも徐々に慣れていったということを聞きました。また、南部へ撤退の時に毒ミルクを飲まされそうになった経験を持つ負傷兵の証言者もいたという話も心の中に残っています。
(続く…)
今回の旅行の目的は、沖縄にある基本的な戦跡・慰霊碑や、自分が取り組んでいる日本軍「慰安婦」に関する場所などを訪れたいという気持ちから4月5日~12日の予定で、沖縄本島・宮古島へと行きました。沖縄本島の戦跡では、海軍司令部壕、ひめゆり平和祈念資料館、沖縄平和祈念公園などを平和ガイドの方に案内していただき、その次の日は対馬丸記念館、南風原文化センターと南風原陸軍病院壕を見学しました。
沖縄本島の戦跡で印象的だったのは、南風原文化センターと南風原陸軍病院壕でした。南風原文化センターでは、壕内をイメージしてつくられた通路と二段ベッドの模型が展示されていて、その中で気管支切開され、上のベッドで横たわっている日本兵の模型が心の中に残っています。また、南風原の満州開拓団の状況、南風原にある「慰安所」の状況、沖縄戦の障害者達のことが具体的に書かれていたことには感動しました。また、説明パネルだけでなく、注射器や軍隊手帳といった当時の現物や南風原教育委員会が作った報告書などが多かったことには驚きました。この時は時間がなく、全てに目を通すことは出来ませんでしたが、平和教育に対する熱の入れ方が違うなということをまざまざと見せつけられたような感じがしました。
病院壕は、とても狭く暗く、南風原文化センター内で見た二段ベッドの模型がさらに壕のスペースを埋めていたと考えると、当時はこれよりももっと狭い状況だろうと想像され、ぞっとしました。米軍の火炎放射器で変色した土壁や、ベッドの上の段に寝ていた朝鮮人兵士が天井に書いた文字跡から、米軍の攻撃のすさまじさや、壕の中にいた人達の気持ちが伝わってきました。壕案内の方から証言者(当時、住民で壕に入っていた方)が言うには、匂いが表現されていないといった話や、それはまるで、ネズミの腐った死骸を鼻に押しつけた感じであり、それも徐々に慣れていったということを聞きました。また、南部へ撤退の時に毒ミルクを飲まされそうになった経験を持つ負傷兵の証言者もいたという話も心の中に残っています。
(続く…)