「彼女が水着に着替えたら」この映画のヒット(1989年)で日本でのダイビング熱が一気に高まった。西武デパートに「原田知世」が着ていた白のBCDとかウエットが展示された(池袋)。この頃、日本国内でダイブショップが続々オープン、景気も良かったのか支援する人も多かった。しかし日本での運営は、夏場限定。オフシーズンは南国「ツアー企画」やウエットスーツ仕立て、時には作業ダイバー(土方)とサイドビジネス無しではやって行けなかった。
その為、夏以降は「ツアー」を組んでフィリピンに行くのが安近短。移動時間の少ないマニラ近郊は理想的。ツアーのボリュームが大きくなると、現地にベースを造る流れが出来た。
バタンガス(マニラ首都圏から車で3時間)に先ず日系相手のダイブサービスがスタート。日本からのツアー受入れが主体、講習も開催開始。この頃、日本で学科、現地で海洋学習と言うスタイルも出て来た。
ダイビング雑誌が「セブ特集」を組み脚光を浴びると「直行便」も開始され、日系ダイブショップが続々出現。多くは既存のセブリゾート内に支店を構えるスタイル、本店は日本国内で日本人スタッフを現地に派遣。
2000年前半、インターネット出現で、日本国内の器材販売は打撃、ダイブショップで買う必要がなくなった。派遣事業の高まりで若者の予算も低くなり、器材そのものの需要も低下。同時にツアーもダイブ専門ツアー会社出現し、ショップでの企画は割高で見放されて行った。日本国内のダイブショップは自然に淘汰され、残るのは伊豆近辺の民宿ダイビングサービスだった。
ネットが盛んになっても、現地の施設は生き残る。ダイビングタンク、ウエイト、宿泊や食事の提供も不可欠要素。然しながら、民宿の大きな問題は、シーズン制(夏場のみ)なのと人材確保。アルバイトのみ、熟練スタッフは育たないし維持できない。
この流れで見ると「海の家」をフィリピンで運営する利点は多い。
★通年営業。
★LCCで渡航し易しくなった。
★現地での人件費が安い。
★地元ゲストの施設利用者も有望(フリーダイブ、体験ダイブ)。安定運営。https://twitter.com/SummerCruise88