川上源一は,1912(明治45)年,今の東区豊西町に生まれました。
源一が,最初に音楽教室設立を思い立ったのは,戦後まもなく,欧米を視察旅行した時のことであったそうです。
イタリアに立ち寄ると,若者がギターを背負ってハイキングをし,楽しく歌っている姿を目撃しました。当時の日本では,みんなで楽器を奏でることなど思いもよらず,日本とイタリアの差を痛感しました。
源一は,音楽教室設立にあたり,次のようにその思いを語りました。
私どもは,ピアノやオルガンを作っている。たまたま欧米の家を訪れると,家庭の生活の中で楽器が本当に生きている姿を親しく目の当たりにする。子どもも大人も何の苦もなくピアノにふれ,奏でるのだ。ところが,我が国では,私どものつくる楽器は,どんどん売れるのに,街を歩いてもピアノの音一つ聞こえない。ピアノを買っても,奏でる術を知らないのだ。音楽は,むずかしいものだ,という先入観念がある。こんなことでは,苦労して一生懸命ピアノをつくる努力も,まったくその甲斐がないというものだ。音楽とはやさしいものだ。ピアノを奏でることは楽しく,だれにでもできることなのだということを,全国に普遍化しようというところから,音楽教室の設置を思い立った。
こうして源一は,「やさしく楽しい正しい」音楽教室を設立し,ピアノを奏でる魅力を全国の人々に広めていったのです。
楽器会社の社長であった源一は,その後,オートバイの製造やマリンレジャーにも事業を拡大していきました。源一は,「自らの手で需要を創造する」という考えのもと,さまざまな教室を設立し,普及活動を行っていきました。
源一が,最初に音楽教室設立を思い立ったのは,戦後まもなく,欧米を視察旅行した時のことであったそうです。
イタリアに立ち寄ると,若者がギターを背負ってハイキングをし,楽しく歌っている姿を目撃しました。当時の日本では,みんなで楽器を奏でることなど思いもよらず,日本とイタリアの差を痛感しました。
源一は,音楽教室設立にあたり,次のようにその思いを語りました。
私どもは,ピアノやオルガンを作っている。たまたま欧米の家を訪れると,家庭の生活の中で楽器が本当に生きている姿を親しく目の当たりにする。子どもも大人も何の苦もなくピアノにふれ,奏でるのだ。ところが,我が国では,私どものつくる楽器は,どんどん売れるのに,街を歩いてもピアノの音一つ聞こえない。ピアノを買っても,奏でる術を知らないのだ。音楽は,むずかしいものだ,という先入観念がある。こんなことでは,苦労して一生懸命ピアノをつくる努力も,まったくその甲斐がないというものだ。音楽とはやさしいものだ。ピアノを奏でることは楽しく,だれにでもできることなのだということを,全国に普遍化しようというところから,音楽教室の設置を思い立った。
こうして源一は,「やさしく楽しい正しい」音楽教室を設立し,ピアノを奏でる魅力を全国の人々に広めていったのです。
楽器会社の社長であった源一は,その後,オートバイの製造やマリンレジャーにも事業を拡大していきました。源一は,「自らの手で需要を創造する」という考えのもと,さまざまな教室を設立し,普及活動を行っていきました。