浜松これが日本一

浜松の日本一を様々な角度から紹介します!
浜松を愛し、学び、楽しみましょう。

需要創造に尽くした川上源一

2013-09-25 20:50:01 | 日本一の人物
 川上源一は,1912(明治45)年,今の東区豊西町に生まれました。
 源一が,最初に音楽教室設立を思い立ったのは,戦後まもなく,欧米を視察旅行した時のことであったそうです。
 イタリアに立ち寄ると,若者がギターを背負ってハイキングをし,楽しく歌っている姿を目撃しました。当時の日本では,みんなで楽器を奏でることなど思いもよらず,日本とイタリアの差を痛感しました。
 源一は,音楽教室設立にあたり,次のようにその思いを語りました。

 私どもは,ピアノやオルガンを作っている。たまたま欧米の家を訪れると,家庭の生活の中で楽器が本当に生きている姿を親しく目の当たりにする。子どもも大人も何の苦もなくピアノにふれ,奏でるのだ。ところが,我が国では,私どものつくる楽器は,どんどん売れるのに,街を歩いてもピアノの音一つ聞こえない。ピアノを買っても,奏でる術を知らないのだ。音楽は,むずかしいものだ,という先入観念がある。こんなことでは,苦労して一生懸命ピアノをつくる努力も,まったくその甲斐がないというものだ。音楽とはやさしいものだ。ピアノを奏でることは楽しく,だれにでもできることなのだということを,全国に普遍化しようというところから,音楽教室の設置を思い立った。

 こうして源一は,「やさしく楽しい正しい」音楽教室を設立し,ピアノを奏でる魅力を全国の人々に広めていったのです。
 楽器会社の社長であった源一は,その後,オートバイの製造やマリンレジャーにも事業を拡大していきました。源一は,「自らの手で需要を創造する」という考えのもと,さまざまな教室を設立し,普及活動を行っていきました。
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ネーブル

2013-09-25 06:05:48 | 日本一の農業

 細江の白柳ネーブル,三ケ日の森田ネーブルが主力品種で,県内流通の約8割を浜松産で占めています。
 細江・三ヶ日・引佐地区の浜名湖北岸を中心に栽培され,12月から4月にかけて収穫されています。 
 浜松産のネーブルは,大玉で味のしっかりした香り高いものとして全国的にも高い評価を受けています。
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ミカン

2013-09-25 06:04:08 | 日本一の農業
 浜名湖北岸の三ヶ日・細江地区は,北・西・東を山に囲まれた南側が傾斜している丘陵地です。太陽の恵みを浴び,冬の冷たい季節風は山がさえぎり,夏は浜名湖をわたる涼しい風が,ミカンの成長に適しています。市内では,引佐・都田・浜北地区などでもミカンを栽培しています。
 極早生・早生ミカンは10月から12月,普通ミカンは12月から3月,ハウスミカンは6月から9月に収穫されています。
 ミカンは,高血圧・ガンの予防,食欲増進の効果があると言われています。
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エシャレット

2013-09-25 06:02:42 | 日本一の農業

主に漬物に利用されていたラッキョウの栽培方法を改良し,みずみずしく,辛味とほのかな甘みのあるブランド品「エシャレット」を開発しました。新津・河輪・五島など,浜松の海岸地域で栽培され,全国の5割を生産しています。
 エシャレットは,一年中収穫することができますが,最もおいしいのは冬です。抗菌作用,疲労回復,食欲増進などの効用があると言われています。
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チンゲン菜

2013-09-25 05:58:06 | 日本一の農業
 1981(昭56)年ごろから,浜松市で生産されるようになりました。ビタミンやカルシウムなどの栄養豊富な中国野菜として広く人気があります。神久呂・三方原・春野地区など,浜松の各地で生産され,全国に出荷されています。
 チンゲン菜は,一年中収穫することができます。ビタミンA・C,カルシウム,カリウム,鉄分,植物繊維など豊富な栄養成分をふくんでいます。美肌効果,ストレス解消などの効用があると言われています。

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医療・福祉・教育に尽くした長谷川保

2013-09-24 20:52:18 | 日本一の人物
 長谷川保は,1903(明治36)年,今の中区高町に生まれました。
 保が18歳の時のことです。キリスト教の信者として礼拝していた保は「この国を救うために働くのだ」という神の声を聞き,その後の生涯をかけて力を尽くしました。
 昭和のはじめごろ,保は,死に至る伝染病として恐れられていた結核を病み,「天地の間に身の置き所もない」と悲嘆にくれていた青年のために,病舎を建てました。 保は,その後も苦しんでいる人々を進んで受け入れていきました。
  保は,戦後初の衆議院議員選挙に立候補し,生活保護法の制定など,日本の福祉充実のため,様々な取り組みをしました。議員生活は7期に及び,保の活躍の場は医療から福祉の世界へと広がっていきました。
 戦後の混乱期を生きた保は,「日本の復興は青年の精神の復興にあり」と考え,教育の分野にいどみました。その精神が,今日の聖隷クリストファー大学,聖隷高校などに生かされています。
 医療・福祉・教育と先駆的な活躍をした保は,生涯にわたって私的財産を持たないという考えを貫き,病院敷地内のバラック小屋に住み続けました。
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「フジヤマのトビウオ」古橋廣之進

2013-09-24 20:50:12 | 日本一の人物
 古橋廣之進は,1928(昭和3)年,今の西区雄踏町に生まれました。
 浜名湖沿岸の町で育った廣之進は,小さなころから水泳の練習に進んで取り組みました。小学校6年の時,100mと200mの自由形で学童新記録を樹立しました。あまりの速さに当時の新聞に「豆魚雷」と名づけました。
 戦争が激しくなると,勤労動員に参加した廣之進は,機械に左手の中指をはさまれ,指先を切断する事故にあいました。「もう泳げない」とあきらめかけましたが,大学進学後にもう一度水泳に挑戦しました。
 1947(昭和22)年,日本選手権では400m自由形で当時の世界記録を上回る記録で優勝しました。その後の大会でも何度も世界記録を上回る記録を出しましたが,敗戦国の日本の記録は公認されませんでした。廣之進の活躍は敗戦でうちひしがれた国民に地震と希望を与え,多くの国民に感動を与えました。
 日本の世界復帰が認められ,1947(昭和22)年,全米選手権に招待された廣之進は,400m,800m,1500m自由形で世界新記録を樹立し,アメリカの新聞に「フジヤマのトビウオ」と驚かれました。
廣之進は,現役を退いた後も,世界水泳連盟副会長,日本オリンピック委員会会長などの要職を歴任し,日本をはじめ世界のスポーツの発展に貢献しました。

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「三ヶ日みかん」を生み出した三人

2013-09-24 20:44:57 | 日本一の人物
 甘くておいしい「三ヶ日みかん」が作られるようになったのは,次の三人の力によるところが大きいと言われています。  
【山田弥右衛門(やえもん)】
 江戸時代の中ごろのことです。今の三ヶ日町に住んでいた弥右衛門は,旅の途中,紀伊国那智地方(今の和歌山県)の農家で黄金色の実をたわわにつけた紀州みかん(小みかん)の木を見つけました。弥右衛門は,その苗木を1本わけてもらい,大切に持ち帰りました。弥右衛門の持ち帰った小みかんは,近隣の農家に次々に伝わり,いつの間にか三ヶ日全体に広まりました。
【加藤権兵衛】
 権兵衛は,江戸時代の終わりごろに今の三ヶ日町に生まれました。 権兵衛は,三河国吉良地方(今の愛知県)から温州みかん(当時は「唐みかん」と言った)の苗木を持ち帰って,自分の家で育てました。すると,今まで育てていた小みかんよりも実が大きく,味もよく,種ができないみかんの実ができました。
 温州みかんは,明治時代になると山の斜面や畑にも植えられるようになりました。,
【中川宗太郎】
 1920(大正9)年,宗太郎は,三ヶ日地区の農場の専任技術員として赴任しました。宗太郎は,新しく開墾した土地に,みかんの木を植え,熱心に選定・消毒などの栽培技術を指導しました。
 宗太郎の教えは三ヶ日町だけではなく,浜名湖北岸の農家全体に広がっていきました。
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日本一大きな天狗のお面

2013-09-23 07:07:03 | 浜松No.1!
 天竜区春野町の天狗広場に,日本一大きな天狗のお面があります。高さは約8m,幅約6m,鼻の長さが約4mもあります。
この天狗のお面は,1985(昭和60)年に兵庫県神戸市で開催されたグリーンエキスポ85の際に作られたものを,翌年に譲り受けたものです。
春野町は,「秋葉の火祭り」で知られる秋葉山があり,天狗にまつわる伝説もいくつもあります。そこで,春野町では「天狗の里づくり事業」を行っており,天狗のお面がシンボルにもなっています。
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東海道の宿で最も多い旅宿 1702(元禄16)年

2013-09-23 07:03:46 | 初めて物語
 元禄16年の記録によると,当時の浜松の戸数は646,人口4336人。 その浜松に、本陣が5軒,旅籠屋は151軒あり, 当時の東海道の宿の中でも最も旅宿 の多いところであったと言われています。
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