最近読んだり見たりした中で興味深い作品がふたつあるのです。
ひとつは、マネジメント(ドラッガー)という経営書、
もうひとつはバッテリー(あさのあつこ)という児童文学書、
バッテリーは4巻まで読んだけど全巻読んでいません。
勿論、作品を読み解く切り口は読んだ人それぞれですけどね。
マネジメントについては、ビジネス社会自体の限界と挑戦、
バッテリーについては、人間・個人そのものの限界と挑戦、
というところが私の切り口です。
ビジネス分野・企業も、そして人も、己が属しているフィールドに対する存在感覚を自覚し挑戦し歩み始めた時から結構な勢いで突き進みますよね。
人間・個人の場合では、ある意味、疾走感覚を感じる年齢というか、そういう時期があると思うんです。
絶対できないものなんてないって、必ずできるって、不可能を信じない、そういうものを疑う余地・余裕のないくらいの成長感覚って体験してきませんでしたか?
突き進むこと自体は自然(生命の本質)の欲求で、押し留めることはとても困難なんでしょうね。
例えば、ニュービジネスと言っても、既にビジネス社会が動いている中に誕生する。
例えば、最高の条件で誕生した人間・個人と言っても、既に人間社会が動いている中に誕生する。
覚えておきたいことは、私たちが暮らしている社会は、パンドラの箱(壺かもしれませんが)が開かれて以来より混沌が満ち溢れているということです。
ビジネスとビジネスが衝突し、個人と個人が衝突し、何事も起こらないなんてことはないでしょう。
賞賛を浴びているビジネスだけで社会は動いていないし、それだけだと動けなくなってしまう。
少数の優れた人間だけで社会は動いていないし動けるはずもない。
どんなに優れたビジネスが誕生しようとも、どんなに優れた人間が誕生しようとも、すくすくと健やかに育つ環境はどこにもないように思えます。
ビジネスの主体は企業なんでしょうけど、
人間の主体は個人なんでしょうけど、
優れたビジネス・企業、
優れた人間・個人、
ビジネス・企業、人間・個人、というより、仕事が運ぶもの、人が運ぶもの、その中身、その本質、ってなんでしょう。そのあたりが鍵でしょうか。
全てがあふれている世界に誕生した企業、全てがあふれている世界に誕生した個人が、己自体で己を簡単に制御できるものでしょうか。
身近なところでは、木など如何でしょうか。
この国は桜の国ですから桜の木を植えていない地域はあまりないでしょう。
若木って勢いがあるし、上へ上へ、横へ横へ、いっぱいいっぱいに広がろうとして、そして広がっていきます。
ついでに言えば、人はその勢いを愛でます。
しかし、いつしかその勢いも衰えてくるでしょう。
多くの賞賛を集めたその若木も他の多くの木々の中で同じような色彩に染まり区別がつかなくなってくるのかもしれません。
そうですよね、その木自身が己の成長の限界を受け入れてしまえば、その木はその時点で自身を自己完成させてしまえるんですからね。
誰にもその木を制御することはできませんでしょう。
その木自身が決めたことなら。
子どもを体験して、学生を体験して、社会人を体験して、初恋を体験して、さまざまな感情を体験して、その時々の周囲の人たちと似たような体験をしてきたからこそ、他人と比較し、己の限界も見えたと、そう感じたり、考えたり、意味づけしたりするのでしょう。
己の限界を超えて進むって怖いでしょう。
己を囲んでいる深い闇(例えば人間の森、動かしがたい既成社会、己以外の大きな力など)の中に安心していられたらそこを突き進んで先へ進みたいと思わないでしょう。
安心と引き換えに恐怖を手に入れてしまうかもしれないのですから。
既成のビジネス社会、既成の人間社会が変わる条件って何なんでしょう。
例えばニュービジネス、例えばニューエイジって何なんでしょう。
そして、ニュービジネスは何を抱え運んでいるのでしょう。ニューエイジは何を抱え運んでいるのでしょう。
限界(既成を超えるもの、理解を超えるもの、見えないもの、己を超える力)を前に葛藤する恐怖の感情、それでも未知の地へ踏み込む力って、やはり特別のものなんでしょうね。
そんな力って、自分がもっているかどうかを考えるより先に、自分の心より先に動くものをもってこの世界に生まれた人が示せるものなんでしょうね。
それはリーダーシップというものとは異なるなにものか、かな。
恐怖を受け入れる力、己を超えたものを受け入れる力、見えざるものを受け入れる力、それって、もし受け入れの許容範囲を超えたら、己が壊れると判断したら滅多に受け入れることはしないでしょう。
でも、その魂をもって誕生したものは突き進むんでしょう。欲するところを叶えたい欲望がたぎっている間は。壁を突き破ることができるうちは。己が滅しても進むのでしょう。
私は、その魂をもつものへ祈りを捧げたく思うのです。
魂を制御することは厳しく困難であっても、魂と寄り添える己自身の心を己自身で育てられる。
この世界は変化を止めない。それは世界が変化を欲しているから。それで、私は祈るのです。禍も幸いも満ち溢れているこの世界の希望となって欲しいと思うのです。それをずっと願い続けるのです。
社会も人も永遠に未完成って残念だな。
小さな完成の輪なのか、大きな完成の輪なのか、それだけの違いなのか、それらの繰り返しだけなのか、そんなこと知らなくたって世界は動いているし動きを止めない。
問い、小さな岩山の中に自分自身を自分で閉じ込めて三蔵法師を待っているのは誰でしょう。
答え、無限にあります。
おまけです。
たとい他人にとっていかに大事であろうとも、(自分ではない)他人の目的のために自分のつとめをすて去ってはならぬ。自分の目的を熟知して、自分のつとめに専念せよ。
ブッダの真理のことば感興のことば
中村元訳 岩波文庫
真理の言葉12章自己より抜粋
ひとつは、マネジメント(ドラッガー)という経営書、
もうひとつはバッテリー(あさのあつこ)という児童文学書、
バッテリーは4巻まで読んだけど全巻読んでいません。
勿論、作品を読み解く切り口は読んだ人それぞれですけどね。
マネジメントについては、ビジネス社会自体の限界と挑戦、
バッテリーについては、人間・個人そのものの限界と挑戦、
というところが私の切り口です。
ビジネス分野・企業も、そして人も、己が属しているフィールドに対する存在感覚を自覚し挑戦し歩み始めた時から結構な勢いで突き進みますよね。
人間・個人の場合では、ある意味、疾走感覚を感じる年齢というか、そういう時期があると思うんです。
絶対できないものなんてないって、必ずできるって、不可能を信じない、そういうものを疑う余地・余裕のないくらいの成長感覚って体験してきませんでしたか?
突き進むこと自体は自然(生命の本質)の欲求で、押し留めることはとても困難なんでしょうね。
例えば、ニュービジネスと言っても、既にビジネス社会が動いている中に誕生する。
例えば、最高の条件で誕生した人間・個人と言っても、既に人間社会が動いている中に誕生する。
覚えておきたいことは、私たちが暮らしている社会は、パンドラの箱(壺かもしれませんが)が開かれて以来より混沌が満ち溢れているということです。
ビジネスとビジネスが衝突し、個人と個人が衝突し、何事も起こらないなんてことはないでしょう。
賞賛を浴びているビジネスだけで社会は動いていないし、それだけだと動けなくなってしまう。
少数の優れた人間だけで社会は動いていないし動けるはずもない。
どんなに優れたビジネスが誕生しようとも、どんなに優れた人間が誕生しようとも、すくすくと健やかに育つ環境はどこにもないように思えます。
ビジネスの主体は企業なんでしょうけど、
人間の主体は個人なんでしょうけど、
優れたビジネス・企業、
優れた人間・個人、
ビジネス・企業、人間・個人、というより、仕事が運ぶもの、人が運ぶもの、その中身、その本質、ってなんでしょう。そのあたりが鍵でしょうか。
全てがあふれている世界に誕生した企業、全てがあふれている世界に誕生した個人が、己自体で己を簡単に制御できるものでしょうか。
身近なところでは、木など如何でしょうか。
この国は桜の国ですから桜の木を植えていない地域はあまりないでしょう。
若木って勢いがあるし、上へ上へ、横へ横へ、いっぱいいっぱいに広がろうとして、そして広がっていきます。
ついでに言えば、人はその勢いを愛でます。
しかし、いつしかその勢いも衰えてくるでしょう。
多くの賞賛を集めたその若木も他の多くの木々の中で同じような色彩に染まり区別がつかなくなってくるのかもしれません。
そうですよね、その木自身が己の成長の限界を受け入れてしまえば、その木はその時点で自身を自己完成させてしまえるんですからね。
誰にもその木を制御することはできませんでしょう。
その木自身が決めたことなら。
子どもを体験して、学生を体験して、社会人を体験して、初恋を体験して、さまざまな感情を体験して、その時々の周囲の人たちと似たような体験をしてきたからこそ、他人と比較し、己の限界も見えたと、そう感じたり、考えたり、意味づけしたりするのでしょう。
己の限界を超えて進むって怖いでしょう。
己を囲んでいる深い闇(例えば人間の森、動かしがたい既成社会、己以外の大きな力など)の中に安心していられたらそこを突き進んで先へ進みたいと思わないでしょう。
安心と引き換えに恐怖を手に入れてしまうかもしれないのですから。
既成のビジネス社会、既成の人間社会が変わる条件って何なんでしょう。
例えばニュービジネス、例えばニューエイジって何なんでしょう。
そして、ニュービジネスは何を抱え運んでいるのでしょう。ニューエイジは何を抱え運んでいるのでしょう。
限界(既成を超えるもの、理解を超えるもの、見えないもの、己を超える力)を前に葛藤する恐怖の感情、それでも未知の地へ踏み込む力って、やはり特別のものなんでしょうね。
そんな力って、自分がもっているかどうかを考えるより先に、自分の心より先に動くものをもってこの世界に生まれた人が示せるものなんでしょうね。
それはリーダーシップというものとは異なるなにものか、かな。
恐怖を受け入れる力、己を超えたものを受け入れる力、見えざるものを受け入れる力、それって、もし受け入れの許容範囲を超えたら、己が壊れると判断したら滅多に受け入れることはしないでしょう。
でも、その魂をもって誕生したものは突き進むんでしょう。欲するところを叶えたい欲望がたぎっている間は。壁を突き破ることができるうちは。己が滅しても進むのでしょう。
私は、その魂をもつものへ祈りを捧げたく思うのです。
魂を制御することは厳しく困難であっても、魂と寄り添える己自身の心を己自身で育てられる。
この世界は変化を止めない。それは世界が変化を欲しているから。それで、私は祈るのです。禍も幸いも満ち溢れているこの世界の希望となって欲しいと思うのです。それをずっと願い続けるのです。
社会も人も永遠に未完成って残念だな。
小さな完成の輪なのか、大きな完成の輪なのか、それだけの違いなのか、それらの繰り返しだけなのか、そんなこと知らなくたって世界は動いているし動きを止めない。
問い、小さな岩山の中に自分自身を自分で閉じ込めて三蔵法師を待っているのは誰でしょう。
答え、無限にあります。
おまけです。
たとい他人にとっていかに大事であろうとも、(自分ではない)他人の目的のために自分のつとめをすて去ってはならぬ。自分の目的を熟知して、自分のつとめに専念せよ。
ブッダの真理のことば感興のことば
中村元訳 岩波文庫
真理の言葉12章自己より抜粋