「でもそうすると、るみちゃんの生きている意味、生まれてきた意味は、自分が何かをするためとか、自分がどうなるためということではなくて、誰かのため、自分以外の他者のためということなのだね?」
「ああそうか、そういうことになるね。気がつかなかった。でもね、そうやって意味が見つかると安心するものがあるのとは逆に、意味がなくても安心するものもあるのだと思うの」
「というと?」
「たとえば、この旅。先生と一緒にずっと旅をして、たくさんお話をして、いろいろなものを見て、美味しいものを食べて、それで安心をしている私というのは、意味を求めなくてもいいものだと思うの」
「なるほど。この旅は何かの意味が前提となっているものではなくて、ただ、旅をしているということかな?」
「そう。たしかに先生は、まだ子どもの私にいろいろな経験をさせようとして、この旅をしているかもしれないから、そういう意味はあると思うの。だけど私の安心は、いろいろな経験をすることで生まれたものではなくて、そういう意味をもった先生と、ただ一緒に旅をしていることから生まれているの。それは、先生と一緒にいることで安心をしているということなの」
「わたしがるみちゃんと一緒に旅をしていること自体が、安心の源ということなんだね?」
「うん。だから、私のこの安心に、意味を求める必要はないの」
「そういうことか」
「そう。だから、意味によってもたらされる安心と、意味が必要とされない安心があって、どちらも安心の材料なのだけれど、意味を必要としないものほど、言葉にする必要がないものほど、安心の本性に近いような気がしたの」
「そうかもしれないね。理性的に言葉にしたものよりも、感性的に心で捉えたものの方が、本物に近づくということかもしれないね」
「うん。だから先生は、私を悲しませないために生き続けてる意味を持っていて、一緒にいることだけで安心をさせる存在なの」
「あはは、これは、本当にプロポーズだ」
「えへへ、ほんとだ」
「けれどそれは、るみちゃんにとってだけではなくて、わたしにとってもまったく同じことだよ。だって、思考回路が一緒だったでしょう?」
「そうだった。先生も、そうやって思ってくれているんだ?」
「そう、かもね」
「かもね?なによ先生、ずるい」
「大人は、ずるいのです」
「なあに、それ?」
女の子と先生は、いつでも仲良しです。
それはきっと、考えも感覚も、一緒だからでしょう。
エーゲ海という響きの捉え方一つで、証明される共通性かもしれません。
(つづく)
「ああそうか、そういうことになるね。気がつかなかった。でもね、そうやって意味が見つかると安心するものがあるのとは逆に、意味がなくても安心するものもあるのだと思うの」
「というと?」
「たとえば、この旅。先生と一緒にずっと旅をして、たくさんお話をして、いろいろなものを見て、美味しいものを食べて、それで安心をしている私というのは、意味を求めなくてもいいものだと思うの」
「なるほど。この旅は何かの意味が前提となっているものではなくて、ただ、旅をしているということかな?」
「そう。たしかに先生は、まだ子どもの私にいろいろな経験をさせようとして、この旅をしているかもしれないから、そういう意味はあると思うの。だけど私の安心は、いろいろな経験をすることで生まれたものではなくて、そういう意味をもった先生と、ただ一緒に旅をしていることから生まれているの。それは、先生と一緒にいることで安心をしているということなの」
「わたしがるみちゃんと一緒に旅をしていること自体が、安心の源ということなんだね?」
「うん。だから、私のこの安心に、意味を求める必要はないの」
「そういうことか」
「そう。だから、意味によってもたらされる安心と、意味が必要とされない安心があって、どちらも安心の材料なのだけれど、意味を必要としないものほど、言葉にする必要がないものほど、安心の本性に近いような気がしたの」
「そうかもしれないね。理性的に言葉にしたものよりも、感性的に心で捉えたものの方が、本物に近づくということかもしれないね」
「うん。だから先生は、私を悲しませないために生き続けてる意味を持っていて、一緒にいることだけで安心をさせる存在なの」
「あはは、これは、本当にプロポーズだ」
「えへへ、ほんとだ」
「けれどそれは、るみちゃんにとってだけではなくて、わたしにとってもまったく同じことだよ。だって、思考回路が一緒だったでしょう?」
「そうだった。先生も、そうやって思ってくれているんだ?」
「そう、かもね」
「かもね?なによ先生、ずるい」
「大人は、ずるいのです」
「なあに、それ?」
女の子と先生は、いつでも仲良しです。
それはきっと、考えも感覚も、一緒だからでしょう。
エーゲ海という響きの捉え方一つで、証明される共通性かもしれません。
(つづく)