はな to つき

花鳥風月

桜の下にて、面影を(14)

2019-08-16 08:41:13 | 【桜の下にて、面影を】
『エトピリカ』
二葉お気に入りのバイオリン曲が流れている。
日曜深夜に放送されているドキュメンタリー番組のエンディング曲。
バイオリンを弾いていた二葉は、この曲をとても好んでいた。
そのバイオリニストの音を好んでいた。
弦と弓の接触時間がほんの一瞬長いような弾き方が、心地良い音の源だと思っていた。
――このお店、当たりかも。
そう、ほくそ笑んだのも束の間、それほど広くない店内は、ランチタイム真っ盛りの大人気で見事に満席だった。
席待ちをしている人こそいないが、食事をしている人に余計な気遣いもさせたくないので、他の店を探そうかと思った矢先、四人がけのテーブルから三人のビジネスマンが立ち上がった。
入り口に立つ二葉の横で、三人それぞれに会計を済ませている後ろ姿に、自然と視線が向かう。
一人がこちらを向いて笑顔を見せる。
まるで、ちょうどいいタイミングだったね、と語りかけるような笑顔だったので、
彼女もお返しの笑みとともに会釈する。
砂時計さえ落ち切らないくらいの間に、三人分の食器はすっかり姿を消し、何事もなかったかのように整えられた木目のテーブルに通された。
まさに、ちょうどいいタイミングだ。
と思ったら、二階にも席があったようだ。
それでも、ほとんど満席であることは予想できた。
自家製パスタが自慢のメニューを広げると、迷うことなくオーダーは決まった。
フレッシュトマトとモッツァレラチーズのパスタ。
それとアールグレイ。
退場を余儀なくされるかと思いきや天国が待っていた、
という状況がひと段落した次の瞬間、ふと思ったのだ。
――好物は、最初に食べるか。それともあとに取っておくか。
一品しか頼んでいないパスタの話ではない。
竹林が先か、法金剛院が先かということで選択を迷っていた昨日を、ふと思ったのだ。
もちろん好物とは、この場合、法金剛院の方だ。
そちらを先にするか、後にするか。
二葉の性格上、その選択に対する答えは、安定的に後者と決まっていた。
すぐにでも飛びつきたい気持ちを抑えて、好きなものを引きつけるだけ引きつけるという、楽しみの先延ばし戦法である。
ただ今回の旅では、その二つに甲乙はそもそもつけ難かったので、どちらを先にしても、どちらを後にしても、後悔はなかっただろう。
けれど、竹林の散策を堪能した後の今では、この選択が間違いのないものだったと思い切れる。
そして、午後の法金剛院での否が応にも高まる幻のような再会への期待を鎮めて、
この瞬間は太めの自家製パスタを存分に味わおうと思った。
気づくと曲は、「タイムメッセンジャー」のエンディングを迎えていた。
『エトピリカ』と同じアーティストの曲だ。

けれど『タイムメッセンジャー』は、『エトピリカ』よりも二曲ほど前に編成されていたはずだ。
おそらく、彼のベスト盤をランダム演奏にしているのだろう。
そんなことを考えながらパスタを頬張る。
そして、少し気になることもある。
満席の昼時に、二人がけのテーブルも多い中、たった一人で四人がけのテーブルに陣取っていることである。
偶然の産物とはいえ、一人優雅に四人がけを占拠している客が二葉だけだったことが、そのささやかな罪悪感を増幅させた。
――落ち着かないな。大抵こういう時に限って、
と思うや否や、正面に据えられていた入り口の扉が開いた。
その瞬間、二葉の体内時計は転調し、心は高速で捕われた。
それはまるで、意識という映像の解像度が倍になったような感覚。
一瞬で、その装いにフォーカスされた。

(つづく)