はな to つき

花鳥風月

桜の下にて、面影を(16)

2019-08-27 21:13:51 | 【桜の下にて、面影を】
  尋ぬとも 風の伝にも 聞かじかし 
  花と散りにし 君が行へを     

さらっと、そしてゆっくりと、情緒豊かな抑揚で一口に詠まれた歌だった。
まったく不思議で、いたって当然のような感覚だった。
それまでの、古の歌人が詠んだ歌を諳んじるのとは、まるで違う感覚。
まごうことなく、自分の歌だと思った。誰のものでもなく、自分の歌だと。
七歳の少年の口からが吐き出されるはずもない歌。
にもかかわらず、それは絶対的なものに思えた。
意味がわかる、とかいうような次元の話ではない。
内から湧き出る、湧き出たのである。
永くここで詠まれるタイミングを静っと待っていたかのように。
この現象を実存的に捉えようとするならば、多重人格としての自我が目覚めた瞬間とでもいうのかもしれない。
しかしその感覚は、いくつかの人格が何かをきっかけにして、体の奪い合いをするといった多重人格障害とは、まったく異質のものであった。
桐詠のそれは、たった一人の人格、間違いようのない桐詠という人間の一つの人格が、現在と未来を往来するような感覚だった。
リアルタイムでは一般的な七歳の子供の思考、行動、感覚。
見るものすべてが、実際よりも五割増しに感じられる世界を生きている、そこいらにいる子供たちとなんら変わらない思考、行動。
大人からすれば、きっちり見たままの大きさにしか映らない幼稚園の庭が、果てしもなく広大なグラウンドに見えたり、背の高い大人たちを見上げて、まるで自分とは異なる種の生き物なのではないか、と思えるようなデフォルメされた子供の感覚。
そんな実寸で物を測りきれていない子供の世界から、たちまちにして形而上、形而下のすべてを見通してしまったかのような、老成した自分へのスイッチが起こったのである。
重ねて言うが、二、三の人格が同居するという多重なわけではない。
人格は一つで、時間を自由に行き来する一人の人格が入れ替わるのである。
突然変異というものは、その現象を体感した本人には、そんなふうに頭の芯が寂(しん)と冴えわたって、冷静にその理り(ことわり)を受け入れられるものなのかもしれない。
けれどもその現場に遭遇した人間には、そんなに簡単に腑に落とせるものではない。
まるで奇怪な生き物に出くわしてしまったかのような、世界の静寂に閉じ込められてしまったかのような八つの瞳は、どれほど高性能なオートフォーカス機能よりも速く、一斉に桐詠を捕捉した。
恍惚の境地。
それは、呆気にとられた挙句、ショックを通り越した先に待っていた虚無を見つめるような感覚と紙一重なのかもしれない。
そんな制止した世界から一瞬早く、しかして辛うじて口を開いたのは千常(ちづね)だった。
「もう一度、詠ってごらん、桐詠」
見たことのないような父の表情だった。
笑顔のような、それでいて目尻も口角も、部位という部位の端っこが引きつっているような、パーツもフォルムもすべてが揺らいでいるような顔だった。
「たずぬとも かぜのつてにも きかじかし はなとちりにし きみがゆくへを」
桐詠は大好きな父のリクエストに、何の躊躇いも迷いもなく、まるで読誦するように、子供のものとは思えない趣のある声色で応えた。
その再びの詠誦は、誰の歌でもないと確信めいた思いを最上級にした。
――これは、間違いなく、僕だ。僕の中にいる、もう一人の僕だ。
目の中に入れても何の異物感さえ感じないであろう溺愛祖母は、これまで目にしたこともないほど敏捷な動きで、不気味なくらいに落ち着き払っている孫の目線に降りた。
そのまま右手で頭を包むと、これでもかというくらいに強く抱擁した。
そして母親は、
「なんて子なんでしょう」
と、感嘆する。さらに、
「これは大層、非凡なり」
と、その血脈を二代にわたってつなげてきた祖父だって三嘆する。
和歌に通じている父と祖父にすれば、その歌の意味はすぐに理解できた。
「桐詠、それは誰に向かって、詠んでいるんだい?」

息子の醸しているこの気配を消してはならぬといわんばかりの慎重さで、千常はそっと聞く。
「・・・・・」
儚さを憂いたような、水差しに浸らせたような瞳は、祖母に抱かれたまま桜の滝を見上げている。
それぎりもう詠うこともなく、ただただ静っと(じっと)見上げている。
もうとっくに七歳の子供が醸し出せる佇まいではない。
その心に、多くの襞の織り込まれた者の所作である。
「――そうか」
そう呟き、千常は受け入れた。
今目の前で起きている現象を、余す事なくありのままに受け入れた。
「桐詠が、詠んだんね。桐詠の歌なんだね」
桐詠もまた、父のその本心の声を全身で感じながら、たった今起きた我が事を、その道理の絶対性を、畏れることなく受け入れた。
しかし同時に、まだ受け入れなくてはならない何かがあるような気もしていた。
そんな自分史における、革命のような出来事が起きた場所。
あの日が静止したままのような、平安朝の巡遊式庭園の名残をとどめる庭。
見事に枝垂れる桜の下。
そこに、二十年を経た桐詠は立っていた。
二十年前と違っているのは、桜の木が実寸で映り、滝の上流が近づき、枝の成長点が眼下になったことだけだった。
あの春の日と同じ、満開の桜の下で詠う。
あの日、我が身に現れた人格に近づいた今の我が身で。
歌が、桐詠の声に見事に乗る。
渾然一体となる。
しかし、おかしい。
何かが不足している気がする。釈然としない。
あの時、薄っすら感じた不全感が思い起こされた。
あまりの衝撃に見落とされていた何か。
それを取り戻すべく、もう一度表出されるままの情緒を伴って詠う。
その懐かしい声に耳を澄ませていた影に気づくこともなく、彼は詠う。

  尋ぬとも 風の伝にも 聞かじかし
  花と散りにし 君が行へを

(つづく)