節子は苦悩を胸に秘めたまま、大学病院を辞職すべく家を出かけた。
その前に、朝風呂から上がって機嫌の良い健太郎に対し、恐る恐る話しかけた退職の話が、予期に反し、実家の年老いた母親を招いて面倒をみてはどうかと言はれて、日頃、健太郎が考えている実母に対する思いやりの深い家族愛について、昨夜の熱い愛の触れ合いにもまして、涙だが出そうになるほど感激し「貴方にそこまで甘えても、本当に宜しいのでしょうか」と聞き返したところ、健太郎が眼光鋭く厳しい顔つきで、これまでに聞いたことのない意外なことを話しだした。
それは、理恵子の実父は新潟で平穏な家庭を営んでおり、娘さんも二人いる。
彼は、新潟市内の中小企業に勤め、亡き秋子さんと夫婦であったが、理恵子が二歳のころ、店の美容師と恋愛関係に陥り、秋子さんと離婚して家を出て村を離れたが、自分はその後、毎年八月の末になると、彼の強い要望で二人だけで秋子さんに内緒で逢っていた。
彼も、歳を経るに従い、学校が春や夏休みのとき身を隠して校外で部活する、実の娘の無邪気な顔を見るにつけ、理恵子に対する慕情がつのり、何度か秋子さんに秘密にして逢わせて欲しいと懇願されたが、わたしは、秋子さんの心情や理恵子の心理などを考え、父親としての心情は理解出来るが、逢うことは絶対にだめだと強く拒絶してきた。
秋子さんも亡くなる寸前まで私に対し、理恵子が成人になり自分でことの是非を判断できるまで逢わせないで欲しい。と、私に何度も念を押していたので、理恵子も実父は病死したものと今でも信じている。
従って彼女は私達以外に、この世で心から頼れる人のない可哀想な子であるが、君が家庭に入ることによって、心の成長過程にある理恵子を、今以上に成人教育することは男の私には不可能なこともあり、彼女の面前で日夜、君が母親の介護をする様子を見せて実地に教育することは、それこそ生きた教育であり、やがてはその幸せは或いは私達に帰ってくることになるかも知れず、そのために、君が退職すると言い出したので、わたしの日頃考えていることを話したのだ。
と、何処までも先行きの深い家族愛を話してくれた。
節子は、その話を初めて聞かされて、驚くと共に今まで以上に理恵子が愛おしくなり、健太郎の考えていることを自分が努力することで少しでも実現することが、健太郎に嫁いできた自分の本当の務めであると、経済的な幸せ以上に大切なことであると思った。
そんな話を聞かされ、瞬間的な丸山先生との魔が差した様な不倫に苦しんだ、自分の女の業に悲しみを覚える反面、何処までも家族の絆の深さを思い知らされ、一層、退職の意をつよくした。
なるべく同僚に顔を合わせない時間帯を選んで病院の教授室に向かう途中、二階の階段の上がり口で、教授室から出てきた丸山先生に偶然出会い、ハッと緊張していると、彼は緊張した面持ちで
「先日は、大変失礼致しました。 貴女を傷付け申し訳なく思うと同時に、恥ずかしくて合わせる顔がありません」
「今、教授から君が退職するとゆうことを聞きましたが、全て私の浅はかな行動の結果で、責任を充分に感じております」
「今後、君に逢って君を惑わすことのない様に、地方の病院に転勤させてもらう様に教授にお願いしてきたところです」
と言って深く頭を下げられた。
節子は、偶然とはいえ、顔を合わせるのを避けていた丸山先生に出逢わしたことに、再び心の底に何か運命的なものを感じて考えが纏まらないままに
「先生 わたしは、家庭的事情で退職することにしたのです」
「先生には何の責任も御座いませんわ。 わたしの方こそ、年甲斐もなく取り乱して大変申し訳なく思っております」
「ただ あの瞬間 先生を本当に心の底から愛したことは、偽りでないことを信じてください」
「然し、わたしとしては、主人の療養と娘の教育が、いまの私にとって一番大切なことであると、時間をかけて考えた末の決断ですので、どうか心を痛めないで下さい」
「良くも悪くも今となっては前向きに考え、私達にとって人生の貴重な出来事であったと、胸の底に秘めておきましょう。 正直、女であることの幸せを感じましたゎ」
「奥様と幸せになられることを、祈っております」
と、返事をしているところに、昼食休みを終えた看護師達が近寄って来たので、お互いに軽く会釈して別れたが、節子の心の底に未練がましく別離の悲哀がよぎった。
教授室に入り、家を出るとき電話しておいたとおり、退職の理由を簡潔に述べて辞表を提出すると、教授は温和な表情で
「理由は理解出来ましたが、たったいま、丸山先生も地方への転勤を申し出てきたが、あまりにも偶然なので、大変失礼なことを尋ねますが、二人の間に何か問題でも発生したのですか?」と聞かれたので、あくまでも家庭の事情ですと説明すると、教授も納得したのか
「君の御主人の健康は、私の父親が診察しているので、時折、聞いて承知しておりますが」
「まぁ~ 余りにも急なことですので、医学部長に相談してみますが、君は手術チームにとって必要な看護師なので、有給休暇も大分あり、良く考えてくれたまえ」
と言いつつ辞表は預かることを告げられた。
教授の父親が診療所で健太郎の定期検査をしていてくれる関係で事情も判り、何とか急な申し出を聞いてくれたが、自分を必要と話してくれる教授の親切さが心にしみて嬉しかった。