飯豊山脈を遥か彼方に眺望する様に、遠い昔となった青春時代を語り合うちに、健太郎と節子の二人の間には確かに存在した、互いに抱いた浮き雲の様な淡い恋を覚えたころを、夫々が思いを巡らせているとき、突然、鳴り響いた携帯で、二人は夢を見ているような雰囲気も中断されてしまった。
健太郎が携帯電話を取り出して返事をすると、通話の相手は彼の村で美容院を経営している秋子さんであった。
彼女は一人身であるせいか世話好きで、時々、娘の理恵子を連れて訪ねてきては、各部屋をこまめに掃除してくれたり、庭の花壇を手入れしてくれ、その合間には、彼女を取り巻く人達の評論や愚痴を話して気を晴らして行った。
彼女は、節子さんと同じ郷里で確か高校2年先輩であったと思うが、今は離婚して中学3年生の一人娘の理恵子と二人で暮らしていた。
秋子さんは、彼の遠慮気味な歯切れの悪い返事に、何時もの癖で少しじれた口調で
「お昼に、お邪魔したら留守でしたが・・。何処に、おいでなのですか?。私に連絡もなく・・」
「普段、あまり留守にしない人が、お家を覗いて心配になったゎ」「私、相談したいことがあったのに・・」
と、例によつて少しオーバー気味に聞いてきた。
健太郎も信頼している秋子さんだけに、それに、彼女と同郷で高校の後輩である節子さんと一緒なので、彼も気持ちを取り直し意を決して素直に
「ほらっ、珍しく節子さんが訪ねてきて、家に引きこもりはよくなく、お天気も良いので散歩に出ましょう。と、勧められて、枝折峠の公園にいるんだ」
と返事をすると、彼女は少し驚いた様な声で
「あ~、あの看護師の”若井節子さん”と~。珍しいわねぇ~」
と、感嘆したあと
「切角のお楽しみ中、電話をして悪かったわねぇ」「節子さんには、私もお逢いしたいゎ~」
「もう、暫く彼女にはお逢いしてなく、それに、娘の理恵子が、いつか節子さんの都合がとれたら、看護師に進む心構えや勉強などを直接お聞きしたい。と、言っていたし・・」
と、急に懇願する様に言うので、彼は「彼女の都合を聞いてみて返事をするよ」と言って電話を終えた。
話が終わるや、節子さんは彼から携帯を手にとり「随分ハイカラなのね」と言ったあと
「なんだか、電話のお相手は女性の方のようね」「私のことをご存知の方?」
と神妙な顔で聞き返すので、彼は躊躇うこともなく秋子さんであることを説明し、時間が許すなら切角の機会だし、お逢いしてゆくかね。 秋子さんも是非お逢いしたいと希望していることだし。と、水を向けたところ
「そうね~、私も、久し振りに彼女のお顔を見せていただきたいが、何もお土産を用意してないし・・」
と、一寸ためらつたが、私と一諸であることもすでに知らせてあることだし、それに、学生時代、特に部活で仲がよかったところから、直ぐに承知してくれたので、その旨、秋子さんに電話した。秋子さんも非常に喜んで
「それでは、早く店を閉めて、娘にも連絡して放課後連れてゆくゎ」
「それに、今日、作った御稲荷さんを持つてゆくゎ。節子さんにもよろしくね」
「彼女相変わらず美しいでしょう。フフッ」
と、笑って機嫌よく返事をしていた。
秋子さんは、どちらかとゆうと学生時代から活発で、気立ても強く、それでいて周囲に気配りする人で、健太郎の村に縁があって美容院を開業して以来、彼の亡妻が親しく交際していたことから、互いに一人身となった今では、自然と行き来しする様になり、彼にとっては何くれと無く大変にありがたい存在である。、
雲の流れがが少し早く多くなるのをみて、どちらからともなく、その場所を離れ峠道をゆっくりと戻りはじめた。
崖を降りる時は、こん度は、健太郎が先に降り、砂利道の急坂では彼女の手を、今度こそ恥ずかしがることもなく、しっかりと握つて身体を支えてやった。 それが、自然に出来たことに、彼は満足感を全身に感じ、彼女も違和感を感じる風でもなく、少しきまり悪そうに照れながらも、それを隠すように微笑んで、彼に抱きつく様にして崖を降り坂道を下った。
時には横に並んで手をとりあったり、細い道は縦列になり、赤土の坂道に足を取られないように、ゆつくりと歩いて杉木立の並ぶ比較的平らなところにたどり着いた。
彼等の歩むのが遅いのか、天候の変化が早いのか、いつの間にか、周囲を薄い霧が彼等を視界から隠すように覆い、少し冷たい霧雨が顔を濡らした。
彼等は、これは早く車のあるところまでゆかなければと、心に焦りを覚えていたところ、細くて小粒だが雨が降りだしはじめ、時折、山間部ゆえにことさら大きく木霊するのか、すざましい雷鳴が周辺の空気を切り裂くように振るわせた。
その瞬間、彼女は狂おしい様に、健太郎の胸に顔をうずめ、両手を背中に回して、信じられない様な強さで彼を抱きこみ、彼も思わず無意識に彼女の背に手をまわして抱き合っていた。
雷鳴が鳴り止むと、彼女は、顔を離し、雨の雫で少し濡れた青白い顔で、彼の目を静かに見ていたが、その瞳は、黒味を帯びて力強く輝いていた。
再び、目を閉じると、その額には前髪が小雨に濡れて少し乱れていたので、彼は優しく手でなでて揃えてやり、きりっとしまつた薄い唇に、自然の流れで、そっと、口ずけをしたが、それは、必然性だけに裏ずけされた肉体の接触でであつた。
彼女は、その瞬間、抱きついた両手に力をこめ、一層、身体を寄せてきたので、お互いに薄での被服をまとっていただけに、彼はその瞬間、彼女の胸の隆起を通じて心臓の高鳴りが伝わるのを感じた。彼には、それが激しく興奮している彼女の感情を容易に察しられた。
このことが、罪とゆうのなら、それは、人がこの世に存在し始めたときの、造物主が生み出した原罪とゆうものだ。
やがて、小雨になったのを好機に歩いて、最近出来たばかりの新しい停留所に辿りつき、そこで一休みしながら服装を整え、霧の流れを見ながら休むことにした。
彼女はバツクから手鏡をとりだして、背を向けて化粧をすばやく直すと、彼の横に腰をおろし、少し間をとり気持ちを落ち着けてから
「健さん。私、生まれて初めて、女としての本当の歓びを感じ嬉しかつたゎ」
「これまで、ときおり、私の心をかすめていた訳も判らぬこの霧の様なものが、すっきりと晴れましたゎ」
「健さんが言われた、人の心の移り変りのうち、今の私の心は、これが天と言うものかしら・・」
「湯殿山に祀られている弥勒菩薩は、本当に再生の仏様と思いましたゎ」
「健さんの健康が許されるなら、何時かはまた、健さんとこの峠道を歩きたいゎ・・」
と、静かに話し終えると、彼女は石碑の方角に向かい、手を合わせ祈る様に軽く頭をたれていた。
そのスレンダーな後ろ姿を見て、健太郎は、彼女の考えていたことと同じことが自分の脳裏をよぎり、運命とはいえ、その昔、互いの間に訪れた青い鳥を育てることができなかったことが、人生の初秋を迎えた今となっては、悲しい思いとして残った。
雨に濡れた坂道を、手をとりあい車のあるところまで歩きながら、色々と雑談しているなかで、健太郎は何かで覚えていた
”男は初恋。女は最後の恋を忘れがたいもだ”
とゆう諺があると話したところ、彼女も「そうね~。言い得ていて、そうかも知れないはねぇ~」と、寂しそうに沈んだ声で答えていた。
彼女は話すことに躊躇いながらも、この機会にと意を決したのか、俯いて囁くような声で
「健さん。亡くられた奥様との結婚生活はさぞかし幸せだったでしょうね。ピアノ教師をなさっていたとか聞いておりましたが・・。職場での恋愛で結ばれたのですか?」
「それだけに、今は心が空虚になり寂しい日々を送られているんでないかしら。奥様のご冥福を祈りますともに、ご同情申し上げますわ」
と呟いたが、彼はフフッと笑って
「ご心配。有難う」
「恋愛だなんてとんでもないよ。親戚の勧める見合いですわ」
と言葉少なに答えたあと、近況について
「幸い貴女と同郷で貴女の先輩である秋子さんが近所に住んでおり、時折、娘さんを連れて訪ねて来ては、家事をしてくれて凄く助かっていますわ」
「一人娘で小学生の理恵子さんは、亡妻の律子が元気なころはピアノの練習に来ていたこともあり、律子を母親の妹とでも思っているらしいわ」
と答えたのみで多くを語らなかった。
春のお彼岸も近い頃。
北国の空は変わりやすく、枝折峠も背後に奥羽山脈に連なる飯豊連峰を控えているだけに、お昼を過ぎた頃から、青空に鰯雲に似た小さい白い雲が、帯を引いた様にまだら模様に増えて、流れも心なしか速くなったように見えた。
丘陵の草を音もなく靡かせる風は穏やかで、肌に心地よく触れた。
狭い山合いに流れる小川のせせらぎには、山吹や水仙の黄色い花が咲きはじめ、頂上の平地には若い青草の中に名も知らぬ花が所々に宝石を散りばめたように可愛いらしく咲いていた。
コブシの花は盛りだが山ツツジは小さいながら赤く色をつけて蕾が小枝一杯に芽吹き、周囲の山川草木はいっせいに山里の春を謳歌していた。
健太郎も節子さんも、田舎育ちだけに都会の人混みは苦手で、この様な自然の風景が何よりも心を癒してくれ好んでいた。
節子さんが、木陰を求めて場所を移動することを希望したので、彼女が先になり草花を手折り摘みながら振りかざして歩るき、欅の枝先に芽吹き始めた大木の下にある椅子代わりの台石のところに来ると、どちらが声をかけることもなく並んで腰を降ろした。
広々とした開放感を与えてくる西側から望む海岸とは反対に、東側には山頂に薄く雲をたなびかせる飯豊山を眺望しながら、青空のもと峰に残雪を頂き、山々の中腹は青黒い樹木の森で彩られ、麓の丘陵は薄緑が陽光に映えている光景を見ていると、その景観はまさしく若人の間で流行言葉となっていた”青い山脈”そのもので、彼が青年時代に抱いた希望に満ちていた時を想起させてくれ懐かしく思った。
彼女は景色を見え終えると立ち上がり、樹齢100年位はあるのだろうか欅の大木に、うしろ手に寄りかかり、草花を顔に近ずけたり、小さく振ったりしながら、少しためらう様に思案していたが、気持ちの整理がついたのか、健太郎の方を見るでもなく
「ね~ 健さん。この場所に来ると学生時代のことを想い出し、こんなことお聞きするなんて、少し大人げないかも知れませんが・・」
「私、さっきから考えていたんですけれど、いま、お話をしなければ、もう、健さんと二人きりで、この様なことを語り合う機会も訪れないと考え、お話する気になったので、どうしても聞いて欲しいの。いいかしら・・」
と言い出したので、健太郎は何事かと一寸気を使ったが、彼女は遠くに目をやりながら
「高校生最後の夏。課外授業でこの崖のところで、今日とは反対に、私が健さんに手を引かれて、この崖にあがったこと。覚えていらっしゃる」
「おそらく、こんな些細なことは記憶にないでしょうね。でも、わたしにとっては強く印象に残っているので・・」
「そして、その時、私が初めて手編みした、小豆色の毛糸のネクタイをプレゼントしたことも・・」
と、彼が予期もしない遠い昔の教師時代のことを懐かしそうに語り出した。
健太郎は紫煙をくゆらせながら、続いて何事を話し出すのかと黙って聞いていたが、それにしても、細かいことをよく記憶しているものだなぁ。と、感心して話に聞き入りながら、当時、独身で駆け出しの田舎教師であった、わが身の、その当時の姿を重ねて想いだしていた。
彼女の一言は当時の彼にしては日常の授業のなかでの一齣で、あまりにも遠い過ぎ去ったことは聞かれても、当時のことはおぼろげながら断片的にしか脳裏に浮かんでこなく、即座に返事することに記憶が追いつかず答えに窮した。
その中でも、彼女から尋ねられたネクタイのことについては全く記憶になく、話題をそらすため直接の質問とはかけ離れた、当時の生活体験を振り返り
「う~ん、そのころ。休日に家族と稲刈をしたあとの田圃のあぜ道で、お昼に握り飯を和気合いあいと話しながら食べたこと、その晩あなたのお父さんの晩酌の相手をしてお酒をご馳走になったことがあったな~」
「そして、農業問題で議論したことがあり、農業には疎いので、随分と勉強になったよ」
「それに、何よりも家族同様に親切にされたことが一番嬉しく、今でも強く記憶にのこっているわ」
と、思いつくままに答えた。
彼女は自分に対する印象の話が無かったことが不満で少し不機嫌そうに「フ~ン それだけ・・」と、つまらなそうに答えたので、彼は当時を思いめぐらすうちに、今更その頃の心境を正直に話すことに羞恥心から躊躇い、本心を隠して
「そうだなぁ。あえて言へば、君は陽に焼けるのを嫌って田圃に出てこなく、家の中の掃除や洗濯等や、お昼の弁当作りに専念していたようだが、妹の紀子さんは積極的に田圃に出て、はさ木の上にいる父親に刈り取った稲束の端を軽く捻って投げて渡し、それがあまりにも見事で、傍らで見ている僕にもその要領を熱心に教えてくれ一緒にやったことかあったなぁ~。面白かったわ」
更に、課外授業でこの枝折峠にしばしば来たことや、吹奏楽の部活で楽しく練習したこと等、おぼろげながらも記憶に残っていることを思い出しながら、断片的に一言一言付け足して話した。
健太郎は、それとは別に言われてみて今でも鮮やかに記憶に残っていることがあった。
それは、彼女の手を何の感情も無く強く握って、崖の上に引き上げた時に感じた柔らかい手の感触であった。
握った直後、一瞬、身体に電流が流れたかの様な、心が揺さぶれた強烈な衝動を鮮明に覚えていた。
健太郎は、それを契機に、それ以後、家庭の中で何につけ彼女の言動に気をそそられ、心の中で彼女に淡い恋心を抱いたが、教師と生徒の関係から自分の胸にしまいこんで、そのまま何事も無かったように過ごしていたことは今でも心の隅に確かに残っていた。
彼が23歳にして、その時、生まれて初めて異性に対する心の高鳴りを覚えた印象は、今となっては流石に歳が邪魔して素直に話をする気になれなかった。
彼女は、少しがっかりした様な表情で、自分が意図する返事が返ってこないことが不満らしく
「フ~ン そのようなことがあったの。私、そのようなこと特別に強く印象に残っていないゎ~」
と、すげなく返事をしたあと、少し間をおいて、とっぴもなく
「健さんが、わたしが高校を卒業するまで家に下宿しておられたら、おそらく、私の運命も大きく変わっていたかも知れなゎ」
「わたし、今でもそんな現実的でないことを考えつつも、時々、夢みたいなことが心をかすめることがあるゎ」
「その頃、わたしが漠然と勝手に描いていた夢が実現していれば、少なくても、生涯独身なんてゆう、世間に対する強がりも、骨破微塵に砕けていたわネ!」
と、時空を超えた人生論を展開したあと、健太郎の顔を見つめ、黒い瞳を輝かせて、はっきりとした言葉で
「人との出会いの中で、特に女性にとっては・・」
と、自分の歩みし過去を回想するかのように話を続けた。
それは30歳ころ、職場で医師から望まれて、お見合いをしたことがあったが、なんとなく気が乗らず、また、身分が違いすぎると考えて、出会いも自然と消極的になり、結局、話が纏まらず、その後は、恋愛らしきこともなく、ひたすら、勉強と仕事に追われて、今にいたった身の上話などを、小声で訴える様に簡潔に話した。
彼女が話終えた時、健太郎の携帯電話が鳴り、話は中断してしまった。
枝折峠の頂上付近は、松や楢や雑木等に周囲を囲まれ中心部分は名も知らぬ草などの雑草が生えた平地で、西側の崖渕から下方を見ると、なだらかなに続く棚田や畑の先には、防風林越しに青い穏やかな海が見え、その彼方には佐渡が霞んで見える。
背後は標高2.000m級の霊峰飯豊山が遠くに眺望できる、この地方では名の知れた憩の場所である。
丘の中ほどに建つ石碑の前で、健太郎と節子さんが並んで腰を降ろし、青空を見上げると、ゆつくりと流れる小さな白い浮雲が流れていた。 健太郎が感慨深く周囲の風景に見とれている間に、いつの間にか、海岸に面した崖の方に行っていた節子さんから
「先生 アッ!健さん。来て、きてぇ~!」
と、若々しい透き通った声で叫んで白いハンカチーフを振りながら手招きし、続いて
「海岸線に沿つた渚がキラキラと眩しく光っていて、まるで絵に描いたように凄く綺麗だゎ~」
と、明るい声で感嘆していたので、健太郎はゆっくりと彼女の方に歩いて行った。
彼女は、眩しいのか手を額にあてて、崖淵の樹木の小枝に掴まって遠景を眺めていた。
白い薄での長袖ブラウスに黒のスラックスのいかにも彼女らしい清潔感あふれる服装で、興味深々と景色を眺めており、彼が近ついたのも気ずかなかった。
春の柔らかい日差しに照らされて見える海岸線は、時々、キラキラと輝いて見え、海岸線に沿って走る列車もマッチ箱のように小さく、まるで箱庭を眺めているかの様な、音も無くのどかな絵のように美しい景色であった。
暫くの間、言葉を交すこともなく景色を眺めたあと、二人は石碑のある場所に戻り、健太郎が若い芝草に胡坐をかいて座りタバコをくゆらすと、彼女も足を横崩しにしてその横に腰を降ろし、彼の右肩付近に顔を摺り寄せ、少女が甘える様な仕草で囁くように小声で
「ネェ~、私にも一本ご馳走してぇ~」
と、彼の顔を覗き見して悪戯っぽく微笑んだので、彼は意外な言葉に少し驚いて
「君。タバコをたしなむの?」
と聞いたところ、彼女はきまり悪そうに
「ウ~ン。昔、外科の手術室に配属されてたころ、OP後ストレス解消にと同僚に誘われ吸いましたが、2~3年位で外科を離れるころ自然にやめてしまいましたの」
と、経緯を説明したあと
「健さんが、おいしそうにくゆらす姿を見ていて、私もなんだか悪戯してみたくなつたの」
と、茶目けたっぷりに言うので、箱とライターを渡すと、細い器用そうな白い指でタバコを取り出すと火をつけ、品良く鼻筋の整った先から紫煙を澄んだ空気に漂わせ、満足そうに
「これ軽いタバコなのね」
と呟きながら、今度は後頭部を健太郎の右肩に背中合わせにしてもたれ、遠くの山並みに目を奪われているようだった。
彼は見るともなく少し振り返り彼女の横顔に目をやったら、毛先を綺麗にカールされた黒い艶のある髪に、やはり、それなりに苦労を重ねたのであろうか、象徴としての銀髪が少し混じつていたが、襟足は綺麗に手入れしてあり、地肌の白い襟首が上品な色香を感じさせた。
彼女は暫くして座りなおすと
「あらいやだ~、健さん重かったでしょう。ゴメンナサイネ」
と言いながら石碑の方に向かい
「私。高校卒業の年、課外授業で健さんに引率されてクラスの人達と、ここにきたとき以来、この石碑が強く印象ずけられて頭の隅に残り、職場での山岳旅行や一人旅で各地の名所で色々な石碑をみたり、或いは時には気分が落ち込んだりしたようなときに、この石碑を思い出すことがありましたわ」
「もっとも、その時、崖を登る際、生まれて初めて男性の健さんに手を強く握られ引上げて貰ったときの印象が強く残っているのは、これって何かの因縁なのかしら・・」
と少女の様にはにかんで言ったあと、恥ずかしさを隠すように
「この石碑って、何時頃なんの目的でこの場所に建立されているの?」
と、難しいことを聞いてきたので、健太郎はしばし思案したあと、それまでに学んだ知識を繋ぎあわせるように、雑学的に覚えていることを要領よく説明しはじめた。
健太郎は、小枝を振りかざしながら
日本に佛教が伝来する以前は雑蜜といって、大山・白山同様に、出羽三山も北越後から羽越を経て奥羽一帯を中心に山岳信仰の中心地であり、鎌倉時代以後に佛教が隆盛を極めると、人々は
羽黒山は、大日如来を本尊として祀り、人々は現世利益を祈願し
月山は、地蔵菩薩を本尊として祀り、祖先の霊を供養し、死後の安寧を祈り
湯殿山は、弥勒菩薩を本尊として祀り、死後の輪廻転生、再生を祈願し
江戸時代まで、その信仰が続いたが、明治維新の廃佛棄釈で、本尊様は麓の大き寺院に移され、本殿には難しい名前の神々を祀るようになったが、その信仰が今日に至っているんだよ。その名残りとゆうのか、羽黒神社の入り口付近では、山伏姿の修行者をみかけるが、請えば歴史的な説明を教えてくれるらしいよ。
この峠の石碑を初め、近郷の大きい裕福な村の神社の境内や村の入り口付近には、大きい石に”湯殿山”と刻字した石碑を目にすることがあるだろう。 あれは過去に参詣した歳老いた人達や或いは病弱のため参詣できない人のために、村の有志が建立したと聞いているが。
今では、半ば観光地化されて羽黒神社前まで車で行けるが、車のない時代、人々が草鞋履きで握り飯を背に幾日もかけて各地から参詣したんだよ。 実際、羽黒神社の入り口前の苔むした急な杉木立に覆われた石段の前にただずむと厳かな気分になるわ。
ついでに、よけいな話しだが、寺院の参道に六っ並んだお地蔵様を見かけることがあるでしょう。
あれは六体地蔵と称して、移ろい易い人の心の変遷をわかり易い言葉で、地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人・天となぞらえ、それを地蔵菩薩の表情と手で表現したもので、佛教すなわち先人の生活の知恵の素晴らしさが伺えるよな。
佛教では、我々が学んで知り得たことは知識といい、仏=先人が自然の生活の営みの中から身につけて得た”知恵”と、知識”を区別しているんだよ。般若を知恵と解釈するように・・。
健太郎は、おぼつかない雑学で概略を説明したが、黙って聞いていた彼女がどのように理解したかは知るよしもない。
彼は、あまり真剣に聞いて欲しくないとも思つた。
こんな話しを終えると、一呼吸おいて、彼女は
「それにしても、昔の人は偉いもんだわね。こんな大きな石をどのようにして、ここまで運んだのでしょうね」
と、理数を好む彼女らしく、鋭い疑問を投げかけて来たので健太郎は返答に窮し咄嗟に
「今の土木作業用重機などない時代に、先人は大阪城の石垣を積むくらいだからな~」
と、答えにならないことでお茶を濁しておいた。
こんな素朴な質問をするところに、やはり彼女は物理が好きな子であつたことを思い出した。
このような他愛のない話をしたあと、彼女は、突然、彼に背を向けて俯き、手にした草花を揺らせながら
「あのね~ 健さん。私、いま、お話を聞いていて、以前から思っていたことですが・・」
「この機会に、どうしてもお聞きしたいことがあるんですけれど・・。迷惑かしら」
と、一寸、躊躇っているように言い出したので、なにか人に言えない悩みでも抱えているのかな。と、思い
「君さえ良ければ、私が答えられる範囲内であれば差し支えないよ」
と返答すると、再び、彼に向き合い、何かを回想している様な表情で、恥ずかしそうに小声で話し始めた。
健太郎は話を聞いていて、遠く過ぎ去った日々の生活に誘いこまれてゆくような、なんともいえない妙に切ない思いに駆られた。
近年にない豪雪に閉ざされていた飯豊山脈の麓に位置する健太郎の住む街にも、平野部に比べておよそ月遅れの春が漸く訪れ、川原の堤防に並んで植えられた樹齢30年位たつたであろうか、古木の桜並木の蕾もほころびはじめた。
早春の晴れ渡った日。
奥羽連峰の高い峰々の白銀が、青空のもと陽に映えて神々しく輝き、小高い丘陵の麓には、整然と並んで植樹された八珍柿や林檎の畑が広がっている。
やがて芽吹くであろう林檎の樹を見ながら、曲がりくねった小道を通り抜けると、越後から羽越に通ずる歴史的にも名のある枝折峠へ至る。
小径は山合いを縫う様に小石混じりの緩急が織りなし、途中所々に先人が通ったであろう昔ながらの石畳みが敷かれた道が連なる。
永年の風雪に耐えて型良く曲がった幹の太い数本の松の古木の周辺を楢や雑木と若い笹が繁茂する道を時間をかけてゆっくりと辿り、小高い丘の上から周辺を眺望する風景は何時来ても変わりないが、眺め見る追憶の目にはその景観は、その時々の思いと重ね合わせて心の奥に潜む感慨を新たにしてくれ、訪れる度に新鮮な気持ちにしてくる。
若い餅草の芽もタンポポに混じり、柔らかく吹き流れる風に音も無くそよいでいる。
山脈の稜線も、透き通るような青空にくっきりと近くに見え、初老を迎えた健太郎には視力が回復したかのように眩しく見えた。
山上健太郎は、家庭と職業の事情から同年齢人達より遅くれて結婚したが、僅か数年で不幸にも連れ添った妻を病で亡くし、その後は慎ましく独居生活を続け、自身も重病を経たせいか歳に似合わず随分と弱ったと自覚する脚力で、枝折峠の頂上付近に辿りつくと、急坂になった岩石の崖を、先に登っていた、かっての教え子である若井節子さんから
「先生 大丈夫!」 「手を貸してあげるから頑張ってぇ~!」
と、腕を伸ばして声をかけられ、右手を握られて力強く引き上げられた。
頂上の中ほどに建てられた、”湯殿山”と彫字された大きな石碑の傍らで、二人は並んで腰を下ろしひと休みした。
二人は共に、周辺の景観に吸い込まれるかの様に穏やかな気分になり、互いに再会した満足感にしたりながら、健太郎は愛用のマールボローを口にし紫煙を輪にして燻らせた。
健太郎は、東京出身だが、戦後、父親の故郷である新潟県の北に位置する小さな町で高校を卒業すると、姉が嫁いでいた北海道の大学に進学し、卒業後は就職難でもあり姉の助言と自らの考えで教師の道を天職と選んで高校の教師となった。
東北地方の各地の高校を転勤した後、40歳半ばとなった今は、生家のある地元で家を継ぐ宿命と健康を考慮して、高校の講師を兼ねる傍ら街の生涯学習の講師をしている。
彼が教師となった頃は、戦後、日本が経済成長期に入った直後の昭和35年ころで、当時、地方では未だに舗装された道路は少なく、土煙りを上げて走るバスが主要な交通手段であり、自転車の利用が人々の間で漸く流行していた時代であった。
物語は、健太郎が青春を過ごしたころに戻るが
新任教師として南奥羽の高校に勤務することになったとき、初めて訪れた土地に対する知識は皆無であったが、駅前に降り立ったときに見た落ち着いた町並みや人々の温和な語り口から、この街の雰囲気を一見して自分に適していると直感した。
駅には大学時代の先輩である田崎教師が思いかけず迎えに来てくれており、その顔を見てそれまで抱いていた仕事に対する緊張感と生活の不安感がほぐれて胸のつかえが薄れ安心感が心に漂った。
先輩教師の後ろには高校生らしき娘さんが一人たたずんで、緊張気味に先輩に挨拶している健太郎を見ていたが、田崎教師に続いて、にこやかな笑顔で軽く会釈してくれた。
先輩は挨拶もそこそこに、校長が特別に配慮して手配してくれた下宿先の説明をし終えると、用意された自転車で予め決められていたのか、健太郎の返事を待たずに自転車をこぎだし三人が縦に一列に並んで街外れに向かった。
その家は、奉職する高校から自転車で30分くらい砂利道を進んだところにある、杉木立に囲まれた農家であるが、家の前で降りたつと、先輩は傍らにいる娘さんを指差して
「この子の家だよ」
と言った後、冗談交じりに
「可愛い娘さんだろう。成績も良く、若い君も張り合いがあると思うよ。将来、この子の婿さんになってもいいんだぞ」
と、ユーモアにとんだ冗談を言って健太郎の気分をほぐしてくれた。
案内された家は、周囲を防風雪除けの大きな杉の樹木に囲まれた茅葺の広い家で、部落でも比較的大きな農家らしく、両親と長女の節子と妹の姉妹四人家族で、表札には”若井”と書かれていた。
宿になる農家の主人夫婦を紹介され、緊張してお世話になる旨挨拶すると、温厚そうな御主人は控えめながらも丁寧に挨拶を返してくれ下宿を快諾してくれた。
その間にも、先程簡単に紹介された節子さんが甲斐甲斐しく煎餅の茶果とお茶を運んできて、畳に両手を揃えてつき丁寧に挨拶してくれた。
健太郎は、その姿を見ていて、子女に対する普段の躾が行き届いている家だなぁ。と、感心した。
下宿先の主人は無口だが表情に優しさが滲み出ており、奥さんが予め用意しておいたのか瓜の蜂蜜漬けを茶菓に出して、茶を注ぎながら自信なそうに
「見た通りの閑散とした集落で、人様をお世話するなんて初めてのことで不慣れですので、先生に満足していただける食事が用意出来るかどうか心配ですわ」
「米と野菜は自家製でたっぷりありますが、何しろ蛋白質は池と川の魚に鶏の卵と、たまに主人が用意してくれる廃鶏の鶏肉がメーンですので・・」
と遠慮気味に話だすと、日焼けした顔と首筋の太い中学2年生の妹の紀子がすかさず、父親以外男のいない家庭に男子が加った嬉しさから
「先生!。心配ないですよ。わたしが放課後街に行き牛肉や馬肉を買ってきますので」
と言い出したので、節子さんは慌てて妹の膝を叩き、「あなたが余計なことを言わないの」と注意すると、紀子は性格が姉と違い、風雪に耐えて家庭を守もってきた母親似か勝気で、姉の注意もそ知らぬ風に、なおも
「姉さんもやせっぽちだが、先生のお腹も凹んでおり、健康上栄養不良気味に見えるわ」
「いくら勉強ができても、痩せた女は農作業も苦手で嫁の貰いてがないと、街の若い衆や同級生の皆が噂話をしているわ。ねぇ~。そうでしょう・・」
「痩せた男の子もなんだか頼りなさそうに見えるわ」
と言って、健康な白い歯を屈託なくのぞかせてフフッと快活に笑ったあと、続けて
「わたしの家にいる間に、もう少し太ってくださいね」
「わたしの家の米は父さんが精を込めて作ったので、とても美味しく、母さんの造った南蛮味噌だけでも食欲が進みますよ」
と持論を展開し、皆があっけにとられているのもよそに、案内の田崎先生の顔を意味ありげに見て
「一生懸命に頑張りますので、少しはおまけして姉の成績に加点してくださいネ」
と付け加えることを忘れなかった。
節子さんは、当時、彼が初めて担任した男女共学の高校2年生で、理数に興味を持ち、常に成績も上のクラスを占めている、色白で細身だが健康そうで温和な性格の生徒で、彼は直感で強く印象に残る教え子であった。
彼女は、高校卒業後、自己の強い意思で上京し、大学の看護学科に進み、その後、都内の大学病院に勤め、持ち前の生真面目さと忍耐心にあわせ努力を積み重ねた結果、技術も優秀であり、また、性格的に患者や同僚間でも人気もあったが、最近、両親の老後の話もあり退職し帰郷している。と、健太郎は、早い時期に故郷に帰ったおり、近所で美容院を営んでいる、彼女の先輩である美容師の秋子さんから聞かされていた。
彼女の卒業式後、転勤で別離した後、健太郎との音信は途絶えていた。
それは、健太郎が故郷で結婚したことを、彼女は両親から聞かされ、苦悩した末、思いを絶つためであった。
幾歳月を過ぎた。 春たけなわのころ
何の前振れもなく、突然、訪ねて来た節子さんと、懐かしい話に花を咲かせているとき、健太郎は
「君、もう遠い昔のことは忘れ、先生と呼ぶのはよしてくれないか」
と、常日頃思っていることを口に出したところ、彼女は困ったような顔つきで
「それでは、なんとお呼びすれば宜しいのかしら・・」
と、とまどっている様に思えたので、彼は
「本名の山上でも良いし、健太郎の健でもいいよ」
と、にわかに思い浮かんだ、ありきたりの名を告げたところ、彼女は素直に
「そうね~、10数年も前のことなのに、同じ様にお呼びするのも、なにかおかしいわね~」
「秋子さんやほかの人様はどの様にお呼びしているのかしら・・」
と、少し思案した後、健太郎の気持ちを察して
「それでは、親しみを込めて、今後は、健さんとお呼びさせていただくは」と告げると、彼は「うん、それでいいよ」と答え、どちらともなく手を差し伸べて握手した。
彼は、崖を登るとき特に意識しなかったが、彼女の手に触れた瞬間、当時教師と生徒の間柄であったが、遠い昔、課外授業で崖を登る時に、彼が彼女の手を引っぱってあげた時に感じたときと同様に、彼女の手の柔らかさは年令を思わせない、なんともしなやかで若々しく、直観的に彼女との再会に運命の不思議さを覚え、心が揺らいだ。
彼は、表情こそ平静を装うっていたが心が騒ぎ、運命の悪戯か、今度は逆に、この同じ場所で、同じ様なことがあるもんだなぁ。と、その当時の懐かしい想い出が走馬灯のように脳裡をよぎった。
健太郎が初めて就職したころは、日本が高度成長期に入る前のころで、地方では物より心の絆を大切にする時代であり、社会は長幼の順が守られ、現代のように差別や尊属殺、ましてや親が子を自己の欲望のためにあやめるといった風潮は全くなく、ましてや、教師が教え子に手を出すといったことも耳にしなかった。
時代の変遷とは言え、余りにも激しい世相の流れに、健太郎はニュースを耳にする度に溜め息をつくばかりである。
閑話休題
この半自伝的な物語は、戦後、人々を取り巻く素朴で必ずしも経済的に恵まれなかった奥羽地方の若い人達。それにもめげず誰もが心に希望を抱いて日々を励み、学園生活・都会への憧れ・就職試験・恋愛等を織り交ぜた、50数年前の昭和を回顧したものである。当時は経済成長の入口前で就職難が唯一の悩みであったが、現代の経済至上主義・格差社会のない良き時代であった。と、老いのせいか懐かしく偲ばれる。
節子さんが突然訪ねて来る少し前、健太郎と同じ街で美容院を営み、日頃、彼の家を子供の理恵子と一緒に訪れては家事をしてくれ、彼と親しく交際している節子さんと同郷で先輩である秋子さんから
「節子さんは、高校卒業後、本当は貴方に対する思慕の念を絶つため、上京したのよ」
「貴方、覚えているかしら・・」
と不意に聞かされて当惑したことがあった。
確かに彼は、2年前、癌に侵されOPをした時は自分でも、また、主治医や周囲の看護師の態度から判断して、これは駄目かなと覚悟したが、医学の世界でもアノマリーがあるらしく、元気でいる(自分ではその様に自覚している)ので、彼女も、彼の姿を見て唖然とし、彼の日常生活・体調・服薬内容などを細かく、それこそ専門的に聞き出したあと
「ヨシッ! 健さん。 閉じ篭りはよくなく運動も大事だゎ。お天気も良いし、気分が宜しければ、枝折峠に行きましょうょ」
「私、峠の石碑に刻まれた碑文が、事あるごとに妙に気になり、何時の日か健さんにお聞きしたいと・・」
と、言葉巧みに誘い出され、また、彼女が強く希望するので、彼女の運転で峠の途中まで来て、そこから徒歩で一時間かけて頂上にたどり着くことができた。
健太郎は、天候に恵まれたこともあり、予想もしなかった彼女との再会に、久し振りに若がえった思いで心が弾む喜びにしたった。
鬱陶しかった梅雨も明け、初夏の訪れらしく風薫り空もカラット晴れた土曜日の昼下がり。
この時期、親睦と健康志向を兼ねた、町内青年会有志による毎年恒例の登山には絶好の日和となった。
肉店を経営する健太(愛称健ちゃん)の店先に集合していた大助達一同の前に、永井君が会社の大型ジープを運転してやって来たので、健ちゃんの指示で助手席に遠慮する珠子が乗せられ、皆は、ゆとりのある後部座席に乗り込んだ。
誰に言われるともなく、大助と奈緒が前方に並んで座り、六助とフイリッピン出身の看護師のマリーの二人が大助に向かい合って席をとり、後部に町内青年部のソフトボール練習に積極的に参加している、小学校教師の直子と健ちゃんが並んで座った。
この様な席順になったのも、健ちゃんと直子のペアを除き、お互いに心の中で相手に惹かれているものがあり自然の成り行きかもしれない。
永井君は運転前に、健ちゃん達に
「今朝、ネットで天気予報を調べたら、九州方面は前線があり荒れ模様だが、関東甲信越は晴れで、よかったですね」
と言いながら、几帳面な彼らしく事前に調べたておいた通過時間の予定表を出して、皆に対し大き目の地図を広げて途中での休憩場所と到着時間を、挨拶代わりに説明していた。
一行の目的地は上信越の苗場山で、健ちゃんは、これまでに、この山には何度も登山しており、その経験から事前の打ち合わせ会のとき、全員に
「そんなに難しい山ではないが、暑い盛りなので、服装は運動しやすいジーパンに長袖シャツを用意する以外、各人がそれぞれ好きなものを適当に選んでよいが、帽子と手袋を用意し登山靴だけは必ず履いて来ること」
と、言っておいたので、皆は軽装で登山帽子をかぶりリュックを背負っていた。
登山口である三国街道の貝掛温泉に向かう途中、予定通り最初の休憩場所である、利根川上流の人造湖である奥利根湖周辺に到着した。
藍色に染まった静寂な湖と、遥か遠くに聳える谷川岳の残雪や周辺の森を眺めているだけで、涼しさを感じる景観に一同は感嘆し、日頃の都会の騒々しさを忘れさせた。
暫く休んだあと、今度は道慣れた健ちゃんが運転して予定時刻通りに、彼の顔馴染みの宿に到着した。
旅館は最近改築したらしく、3階立ての屋根が除雪のため急斜面になっており、都会では見慣れない建物で、皆は降車するなり宿のお上さんの説明を聞きながら見とれていた。
宿に入ると、健ちゃんは顔馴染みのお女将さんに簡単に挨拶し、お茶をご馳走になったあと2階の部屋に案内された。
部屋は広く男女別々に用意され、女性達は荷物を置いたあとテーブルを囲んで窓越しに見える山並みを見ながら、各人が持参したお菓子をテーブルに並べお茶を飲みながら雑談していたが、やがて廊下越しに響く健ちゃんの太い声で、男性群が先に露天風呂に行き、そのあと女性群が揃って入れ替わりに入った。
健ちゃんは、彼女等とすれ違い様にニヤッと悪戯ぽく笑って誰に言うともなく
「あぁ~と、以前読んだ石坂洋二郎の青春小説の受け売りだが、上がり湯の無いころの温泉場では、女性達は必ずビール瓶に真水を用意して行き、湯から上がったとき下腹部を洗い温泉成分を洗い流したらしいが、これは医学的に根拠のあることで、まぁ、君達の将来のために、参考までに・・」
「詳しいことは看護師のマリーちゃんに聞けばいいさ」
と言って、彼女達を煙に巻いて部屋に向かってしまった。彼女達は、健ちゃんのきついジョークを半信半疑に聞き流し互いに顔を見合わせて軽く笑いあっていた。
夕食は二階の板敷きの広間に用意されており、テーブルには岩魚の塩焼きと刺身に山菜の天麩羅と、キノコと豆腐に山鳥等の鍋料理が用意されていた。
食堂に入ると長テーブルに男女が向かい合って座り、永井君が到着後小川で冷やしておいた缶ビールやジュースを並べると、健ちゃんは
「おいっ! なかなか気が廻るな。やはり一流の営業マンは神経の使いどころを心得ているわ」
と上機嫌で褒めて笑って言うと、彼は
「いや、実は六助君に前もって教えられていたんですよ」
と言いながら、今度は、階下から冷えた地元特産の葡萄酒の瓶を持ってきて、女性達に
「これ、僕のささやかなおごりですが・・。仲間に入れてもらったお印に・・」
と言って、彼女等のコップについで廻ったので、女性達は一斉に拍手して、夕食の雰囲気を盛り上げた。
六助は、彼女等に
「岩魚の塩焼きは頭からかぶりつくと、焼き塩が甘く感じて本当にうまいんだよ」
と食べ方を教え、ついでに汁碗の蓋を開けるや
「これは、岩魚のガラのダシで珍味だ。オヤッ!魚卵も入っているよ」
と、魚屋らしく、ビールからワンカップの酒に換えて呑みながら、機嫌よく解説していた。
皆が、久し振りの旅行に心を弾ませて笑いを交えて楽しく食事をしているとき、健ちゃんは自衛隊出身で、普段、街の夜間道場で青少年に護身術を指導しているだけに
「明日の朝は、3時出発で日帰りとするが、険しくない山とはいえ、標高2.000mはあるので、心を引き締めて転倒などしないように互いに注意し合って登ること。特に団体行動は規律が大事で、親しいからと言ってふざけることの無いように心して欲しい」
と予定と注意を話したところ、マリーが、いたずらっぽく笑いながら
「健太さん、そんなに厳しいことを言わないでょ」
「わたし、女のお友達もいいけれど、やっぱり男のお友達と一緒のほうがずっと楽しいゎ」
「下界を離れた高い山の霊界の中では、若い男女が多少気を緩めてハシャグのは生物の本能でしょう。神様もお許しくださると思うけれど・・。皆さんは、どう思いますか」
「六ちゃん(六助の愛称)。わたしを、どんなときでも、親切にヘルプしてょ」
「登山は初めてで、脚力には自信があるけど、君を頼りについて来たのだから」
「わたしの母国は、永らくアメリカに統治されていたため、その習慣で日本よりずうっと、レデーフアーストだゎ」
と言ったので、珠子は弟の大助と奈緒のことを思い浮かべ、二人がこれを機会に歳相応の交際を深めて欲しいと願い
「マリーさんのおっしゃる通り、私もその御意見に賛成だゎ。常識の範囲内ならいいことだ思いますけど・・」
と発言すると、大助は久し振りに顔を合わせ、朝から言葉少なくやや緊張気味の奈緒の感情をほぐしてやろうと、彼女の脛の辺りを足先で軽く蹴飛ばしてニコットしたら、奈緒は突然のことに驚き「ナニヨッ!」と声を上げたので、皆が、気まずそうな大助達を見て笑い出してしまった。
健ちゃんは、豆鉄砲を食った様に目をパチクリさせて、六助や大助の顔を覗いてチラット苦笑した。
珠子の思いが、健ちゃんのかねてからの目的の一つでもあったので、彼は下手な注意よりは、マリーの言い方のほうが、そのものズバリで的を射てると思い、彼女の、その場の空気を読むのが巧みで、明るいユーモアのある子だと微笑ましく思った。
何しろ、奈緒と直子を登山に連れて来るのは初めてで、二人を皆の輪に入れるのに気配りしていただけに、マリーの率直な言葉に助けられホットした。
それにしても、こんな時、豊富な話題で周りの人達を自然に和ませることが巧みな昭二がいてくれたらなぁ~。と、彼が永井君に遠慮してか参加していないことに寂しさを感じた。
夕食を終える頃、直子が窓際に行き、虫除けの網戸越しに空を見上げて
「奈緒さん、お星様がとっても綺麗に輝いて見えるわぁ~。お月様は十三夜かしら、早く来て見なさいょ」
と誘い
「山の天候は変化が激しいようだわ。お月様が浮雲に隠れると途端にお星様がキラキラと瞬き美しい天空となるが、雲が流れて顔を出すと今度はお星様が見えなくなり、当たり前のことだが普段気付かない、その隠れん坊が童話の世界に誘いこまれたようで面白いわ」
「空気が澄んでいて、峰を渡る風の流れが速いために、街では見られない光景だゎ」
と話しかけると、奈緒も
「眺めているとロマンックな気分になれるわねぇ~」
「けれども、お月様が隠れると、わたし、深く考えずに連れて来てもらって皆さんに御迷惑だったかなぁ。と、フット思うとなぜか寂しい思いが心を掠めてしまうゎ」
「わたしって浅はかで駄目な女だわねぇ・・」
と煌めく星空を見上げて独り言の様に呟いた。
直子は、夕食時、大助が奈緒をからかったことを思い浮かべて、彼女の耳元で囁く様に
「大助君のこと・・?。思い過ごしは良くないゎ」「何時ものように元気をだしなさいょ」
と、教師らしく雰囲気から察して彼女の気持ちを見透かしたかのように励げましていた。
窓から入る、ひんやりと肌に感じる涼風が、彼女等の髪を微かに揺らしていた。
健ちゃんは、アルコールがほどよく利いて口も滑らかになり上機嫌で女性達に
「明日が早いし、男女別々に部屋を用意してあるので、各自床を敷いて休むことにしよう」
「女性群は少し早く起きて、宿の小母さんが朝と昼のお握りを作ってくれるので手伝ってやってくれないかなぁ~」
と言い残すと、残りの缶ビールとワンカップを持って、六助達男性群を連れ部屋に行ってしまった。
美代子は、全身に喜びを漲らせて甲斐甲斐しく朝食を用意したあと、食事をしながら、お爺さんに何時も以上に明るい声で
「今日は、大ちゃんが思う存分勉強し易いように、お部屋を整理するので、学校はお休みするゎ」
「勿論、大助君も一緒よ」
と言うと、お爺さんはキャサリンが留守でも大助がいるだけで、こうも変わるものかと思うと、二人の自主性を尊重して
「今日一日で何もかもいっぺんに終わらせることもなく、ゆっくりと時間をとり、よく相談してやるが良いさ」
と頷いていた。
二人は、お爺さんの機嫌のよい返事に勇気をえて、早速二階に上がって行った。
彼女は自分の部屋に入る前に、廊下で立ち止まり
「大ちゃん。 わたしマリア様に、君と一緒に過ごせる様になったお礼と、今後、健康で和やかに暮らせるように、お祈りして行くので、君も一緒にお祈りしてね」
と言って、無理矢理、祭壇のある部屋に導き、髪を白布で覆って聖書の一節を独唱して胸前で十字を切り恭しく頭を垂れた。
大助は、そんな彼女の後ろ姿を見ていて、自己の目的を遂げようする強い意思、それを実行する逞しい行動力、それでいて、心に秘めた敬虔な信仰心の厚い女性であると改めて思った。
礼拝を終えると、彼女は予め考えていたのか、彼の同意を探るように遠慮気味に
「大ちゃんは、私の部屋をつかいなさいよ」
「机やスタンドそれに書棚もそっくり使ってね。 勉強で疲れたら出窓のガラス戸をを開けて空気をいれかえ、飯豊山や麓の原野を眺めたり、ベットで横になるのもいいゎ」
「わたしも、頭が疲れたときや無性に寂しいときなど、今頃、君がなにをしているのかなぁ。と、君のことを想い巡らせながら、そんなふうにして過ごしていたのよ」
と言うや、彼の返事を待たずに、さっさと自分の図書や衣装棚それに化粧用具と鏡台等の整理をはじめ、小物を隣の部屋に手際よく運び出したので、彼が
「アレッ! 隣の部屋に運んでいる様だが?」
「お爺さんが言っていたが、お母さんと一緒の部屋でないのかい?」
と聞くと、彼女は
「なぁ~に、つまらないこと言っているのよ。わたし達のプライバシーを守るためにも、隣のお部屋よ。当たり前でしょう」
「隣のお部屋は、わたし達の居間兼寝室にして、TVやパソコンの配線をしてもらい、お茶道具も揃えて、私達がくつろげるお部屋にするゎ」
と言って、考え通りに部屋の模様替えの話をしたあと、早速、満足感を漂わせた表情を浮かべて図書の整理を始めた。
彼女は、小物や図書の整理しながら大助に聞こえよがしに、独り言を呟くように、小声で
「昨晩、お爺ちゃんと大ちゃんのことを話あっているとき、お爺さんが冗談とも本気ともつかない表情でブツブツと、わたしにあてこするように、<美代子の望む通りにしてやったので、今度はワシにたいする恩返しで、ワシが元気なうちに早よう男の子を生めっ>だって・・。(フフッ) <お前を育ててみて女の子は小学生までは可愛く面倒みるのも楽しかったが、中学生頃になると、なにやかにやと文句ばかりを言い、面倒みるのにつかれたわ。 それにワシにとって話相手にもならず張り合いも薄れて、もう沢山だわ>なんてことを愚痴ぽく話していたわ。幸いママが留守だからよかったが・・」
「ママがそばにいたら、お爺さんの話を本気にして、慌てて、式もあげないうちにとんでもないわ。と、怒っていたでしょうね」
「わたし、そんな話を聞いていて、フッと思ったんだけれども、もしもよ、将来、今いくら考えても想像も出来ない理由や事情で、大ちゃんと一緒になれないことが起きたとしたら、わたし本気で大ちゃんの赤ちゃんを生む覚悟だわ」
とボソボソと言っていたので、彼は話を小耳にするや
「オイ オイッ!冗談もいい加減にしてくれよ。そんなことを本気で考えているなら、僕、ここから逃げ出すよ」
と言うと、彼女はフフッと笑って
「アラッ 聞こえていたの。もしものときの仮定の話なので気にしないでよ」
「わたし、君にそっくりな赤ちゃんと暮らすつもりなの」
「お爺さんの話を聞いているとき、フト本気でそんなことを思ったりもしたわ」
と言って手を休め、なおも小物の整理にあきたのか、この時とばかりに時折心を霞める霧を一挙に払拭するかのように、空想めいた話しに勢いをまして
「わたし、結婚式まえに大ちゃんの子供を身篭っても平気だわ。本気よっ」
「大体、計画出産なんてあてにならないわ。現に春先、初めて肌を許しあったときも、大ちゃんは翌朝青い顔をして妊娠するんでないかと心配していたが、な~んでも無かったじゃない」
「やはり、自然の成り行きで産むのが女にとっては最善だと思うわ」「君がよく言う自然・自然!よ」
と言いたしたので、大助は
「ヤメタ ヤメタ! そんな話に興味はないわ。今晩から僕のベットに潜りこまないでくれよ」
と半ば怒ったように返事して彼女の話を遮ると、美代子は途端に情けないような声で
「そんな意地悪なことを言わないでぇ・・。わたしも、ママに言われるまでもなく、勉強のお邪魔にならない様に、わたくしなりに気配りするので・・」
と言って話をやめてしまった。
大助は、彼女と会話を交しながらも、恵まれた環境の中で勉強するためにも、雰囲気に溺れない様に自制しなければと自分に言い聞かせた。
作業が一段落して、大助が美代子の使用していた部屋の椅子に腰を降ろして
「いやぁ~ 裏山の眺望はいいが、美代ちゃんの香りが部屋中にプンプン漂うっているわ」
と言うと、彼女は我が意を得たと言わんばかりにニコット笑って
「それだからいいのよ」
と返事しているとき、大助のポケベルが鳴って、彼が受話器を耳にし「わかったよ、いずれ話をするから」と返事をして、無愛想に切ってしまった。
美代子は「ねぇ、どなたからの電話?」と聞くと、彼は問いかけに無言で図書の整理を始めたが、彼女がしつこく聞くので、彼は「姉貴だよ」と素っ気無く答えたので、彼女は一番気にしていたことなので、なおも
「なんて言っていたの?」
と不安な表情で、彼の腕を引張って催促した。
彼は重い口調で仕方なさそうに、姉の珠子の返事をそのままに、オーム返しに
「う~ん。<大助のバカッ!。奈緒ちゃんをどうするつもりなの・・>と、怒っていたが最後はあの強気な姉貴が珍しく泣き声になってしまったよ」
「こんなこと、今迄になかっただけに、ショックだったなぁ」
と話すと、美代子は彼のシャツのボタンを弄り回しながら、うなだれて
「母さん達が、お話しても、やっぱり無理なのかしら・・」「困ったゎ。今になって、どうすれば良いのかしら・・」
「ねぇ~ わたし達のやっていることは、そんなにいけないことなのしら」
と急に寂しそうに呟いたが、彼は強い意思をこめた眼差しで、彼女の顔を見つめて、はっきりと
「僕は、自分が決断した通りに実行するよ」
「いずれ、きちんと話せば必ず判ってくれると思うよ。それにしても説得が大変だなぁ・・。それに新潟の隠れ家のこともバレテしまうし」
「姉貴も、はやトチッテ勘違いしているんだよ。別に婚約した訳でもなく、お爺さんの計らいで僕が勉強しやすい様に生活環境を整えてくれた。と、いゆうだけのことなのに・・」
と言ったあと、彼女の両肩に手をかけて笑って答えてくれた。
美代子も、珠子姉さんや彼の幼馴染の奈緒子さんの立場と心情を知りつくしているだけに、大きな衝撃をうけ即座に返答出来ず、うなだれていたが、しばらくして、大助の揺ぎ無い自信に満ちた言葉を聞いて不安感を払拭し、零れ落ちそうな涙を首に掛けていたタオルでぬぐった。
昼食後、大助は思ったより早く作業が進み、姉の電話も気になり、気晴らしに
「何もいっぺんにすることはないわ。お天気も良いし、運動不足なので裏山に行って来るかな」
と言ってトレパンに着替えたので、美代子も「わたしも行くゎ」と返事をして、白いセーターに黒のパウダージーンズを履き、長い髪を黒いターバンで束ねて外に出た。
母屋から病院の入り口前に出たとき、庭先で植木の手入れをしていた老医師のお爺さんと顔を合わせ、美代子が「気分転換にお散歩に行ってくるゎ」と一言告げたら、お爺さんは彼女の顔を見て「なんだ、冴えない顔をして・・」と言って、受付にいた朋子さんに「サングラスを持ってきてくれ」と頼み、朋子さんが大急ぎで持ってきたサングラスを美代子に渡たすと、お爺さんは上機嫌で安堵の表情を浮かべて、大助と美代子にたいし、朗らかな声で
「先程、キャサリンから電話があり、節子さんの懸命な説得で、大助君の我が家への寄宿について家族の了解を得たらしいわ」
と、連絡があったことを教えてくれた。
その際、キャサリンと節子さんは、大助君の母と珠子さん達とホテルで夕食を共にし、今後のことについて色々と話しをして来るので、明日、帰りると言っていた。と、つけ加え、彼女に
「いいか、大助君のお世話はお前に任せるからな。いちいち賄いの小母さんを頼らず、自分で考えて手落ちのないようにするんだぞ」
「食事は栄養第一で、旨いまずいは未熟なお前に期待しないが、緑黄色野菜、海藻類を欠かさず肉はなるべく避け、鰯や鯖など青身の魚中心とするのだぞ」
「美味しい料理はキャサリンに時々作ってもらうことにするわ」
と言ったあと、ニヤット笑って
「たまには、ニンニクを多く入れたモツ煮やレバー焼きも晩酌のつまみにいいな」
「なぁ~大助君、君もたまには食べたいだろう」
と、傍らにいる大助を見ながら小さい声で言うと、彼女はお爺さんが細かく指示するのが面白くなく、小声で
「イヤダーッ わたし、そんな臭いにおいのする料理食べたこともなく、作れないわ」
と言うと、お爺さんは
「ホレッ もうその調子だ。ワシは胃腸の腫瘍内科の医師だ、胃腸に優しい食事は癌予防に大切なんだよ」
「作りかたが判らなかったら、居酒屋のマスターか寅太に聞け」
と、厳しい目つきで言うと、彼女はキャサリンからの電話があったことを思い浮かべ、これまでのお爺さんの心遣いを思うと、自分に任せてくれる嬉しさから満面に喜びの表情を浮かべ、お爺さんこそ我儘だゎ。と、内心では思いながら半ば呆れたような顔をして「ハイ ハイッ」と愛想よく返答し、大助がそばにいるので
「お爺さん、判っているゎ。ご心配なさらないで」
と返事をして、脇にいた大助の顔を見て嬉しそうに笑顔でうなずいていた。
その様子を見ていた朋子さんも、誰に言うともなく「よかったわ」と呟いて、大助と美代子をまぶしそうに見ていた。
校舎裏の小道の入り口に差し掛かると、見慣れた寅太の車が止めてあった。
二人は車を見つけると顔を見合わせてニコット笑い合い、手を繋いで通い慣れた細い道を、夫々に見慣れた風景に過ぎし日の想い出を重ねて懐かしみながら、語ることもなく歩んだ。
すっかり白味を増して晩秋の光に照り映える白樺の並木道を越えると、大助は「橋の所で待っているから」と言って、コスモスの咲き乱れる中を通り過ぎると、小径に覆い繁るススキを掻き分けて猛然と走り出した。
美代子は、その健康な後ろ姿を眺めていて、彼のうしろ姿から後光を放っている様に輝いて見えた。
そして、偶然の再会とわいえ、素敵な人に出会え、これから共に過ごせる嬉しさで、自分達が蒼い恋から緑の恋に順調に進んでいることを内心で確かめ、自然に込み上げる明るい希望で胸が一杯になった。
彼女は、川幅が30メートル位の小川に架かる木橋迄来て疲れたので立ち止まっていると、大助と寅太が愛犬の”コラッ”を連れて賑やかに話ながら戻って来た。
三人は、橋の上で上流から勢いよく流れる水が、大きい石にはねかえって、秋の日差しに反射して白く砕け散る様子や、流れが澱んで青く透き通った清流の中を、銀鱗を光らせて素早く泳ぐ小さい魚を興味深々と眺めていたが、寅太は「あれは、ヤマメの稚魚だよ」と教えていた。
風が冷えてきたので帰ることにし、寅太は長い鍬の柄に季節遅れのアケビを5個ぶら下げ、愛犬に1個をくわえさせて、駅舎が見える小高い丘陵にさしかかるや、寅太が
「春の中ごろ、君が東京に帰るとき、此処で美代ちゃんと二人で見送ったが、俺の手旗信号と美代ちゃんの赤いパラソルを振るのが駅舎から見えたかい」
と言ったので、大助は感慨深そうに
「あぁ 良く見えたよ」「そのときは、美代ちゃんはイギリスに行くので、もう逢えないなぁ。と、思っていたが、今、此処に三人で居るのが不思議に思えてならないわ」
と答えると、美代子が笑いながら当時を思い出し
「あの時は、もう二度と逢えないと思って、おもいっきり泣いたゎ」
「寅太君も、寂しさを紛らわせるため、手旗で雑草を掻きまわしたら、蜂の巣を突っいて、蜂が驚いて飛び出したので、泣いているどころでなく、二人で大急ぎで逃げたゎ」
と、そのときの様子を話して、寅太に
「寅太君も、時々、荒っぽいことをするが、わたしには、頼もしい友達で時折優しく気遣って接してくれ、それに寂しいときには励ましてくれるし、キミヲ スキニナッタワ」
と言って微笑んだあと
「勿論、大助君の次にょ」
と、はにかみながら、ブルーの眸をチラット輝かさせて寅太の顔を覗きみて、恥かしそうに小さい声で言葉を足したので、寅太は
「お世辞と判っていても、中学卒業以来、美代ちゃんに初めてその様に言われると嬉しくなって舞い上がってしまうよ」
「つきあっている真紀子はそんな風に褒めてはくれないが・・」
と言って、大声を出して愉快そうに笑っていた。
寅太の大きな笑い声にビックリしたのか、彼等の先に行く愛犬の”コラッ”も振り返った。
晩秋の柔らかい日差しが照り映える野原の中に、野菊の花が所々に咲き乱れる丘陵の小径を、三人は明るく談笑しながら家路についた。
秋の夕暮れは釣瓶おとしの様に早いが、美代子が帰宅するや待ちかねていたお爺さんが、キャサリンの知らせに二人以上に嬉しいのか、大助君と勉強や今後の生活について晩酌しながらゆっくりと相談したいと言い出し、大助もそれを望んだので、彼女もお爺さんの笑顔から気持ちを察して言い分を素直に受けいれ、彼女もこの機会をとばかり、本心を隠して、お爺さんに
「わたし、山上(健太郎)先生と理恵子さん(山上夫婦の養女で、美代子が姉の様に慕う美容師)に御挨拶をしてくるわ」
と言い残して出かけていった。
彼女は、美容室に入るや嬉しそうに、日頃尊敬している理恵子さんに近況を話したあと、兼ねてより思案していた、大助君と一緒に過ごせる日が訪れた暁には、自分の気持ちを引き締めるために髪型を変えることを頼み、理恵子さんの助言をえて、思いきって長い髪を惜しげもなく首の辺りまで切って、顔を包み込む様にフワリと金髪をカールしてもらった。
理恵子が作業しながら、自己の恋愛経験から理想的な交際のありかたについて話すのを聞きながら、鏡の中の自分を見ていて、髪型を変えただけで、望んでいた通り外見上も大人になった様に思えた。
帰宅後の彼女を見た大助とお爺さんは、彼女の様変わりした髪型をみて言葉も出ないほどにビックリしたが、お爺さんはやや間を置いて謹厳な顔をして言葉少なく
「それで良しっ!。その覚悟を終生忘れず大助君に尽くし、勉強と家事見習いに励め」
と言うや、破顔一笑これまでにない上機嫌で孫娘の成長を喜んでいた。
大助は、日頃、髪については人一倍気を使っていた彼女が、それなりに事前に考えていたこととはいえ、彼等になんの前触れもなく突然髪を切るとゆう重大な決意をし、それを即座に実行する、彼女の心意気に圧倒されて言葉を失い、呆然と眺めていたが、内心では、これまでの彼女と違った大人らしい艶のある容姿に、改めて彼女との巡り合わに幸せを覚えた。
『 山の彼方に 鳴る鐘は 清い祈りの アベ・マリア
つよく飛べ飛べ こころの翼 光る希望の花のせて
月をかすめる 雲のよう 古いなげきは 消えてゆく
山の青草 素足でふんで 愛の朝日に 生きようよ 』
♪ 山の彼方に ヨリ (完)
大助も、寅太や三郎とオンザ・ロックを飲んでリラックスし、囲炉裏端で気心の知れた朋子さんや若い看護師の賑やかなお喋りに雑談が弾んで愉快な雰囲気に溶け込み、皆のテンションが上がって取り留めもない会話をまじえていたとき、三郎が言いずらそうに
「あのぅ こんなことを聞いて悪いが、前から気になっていたんだが、美代ちゃんは東京のイケメンをどうやってゲットしたんだい」
「施設の婆さん達が、時々、美代ちゃんと大ちゃんのことを不思議がって、俺に対しボヤボヤしているからこの街きっての美人をよそ者に攫われてしまうんだ。この意気地なしめ。と、きつい皮肉を言われたことがあり、こればっかりは返事の仕様がなくホトホト弱ってしまうんだ」
と、ひょうきんな彼にしては珍しく愚痴めいて零した。
寅太は、これを聞いて
「今更そんなことを聞いても仕様がないさ」「学が無い悲しさだよ。学が。。。」
と言って三郎を慰めていた。
美代子は、若い女性のいない施設の職場環境から、三郎の気持ちが判るような気がして、思いつくままに、当たり障りなく
「サブチャン そんなこと、わたしにも判らないゎ」 「自然よ・・。自然にこうなっちゃたのょ」
「サブチャンにも何時かは可愛い女の子との素晴らしい出会いが必ず訪れるゎ。焦ることないわ」
と、彼に同情して少しロマンチック風に答えた。
大助が、話を引き継ぐように、言葉を選びながら
「僕、以前読んだ本で、人は何かを選択するとき、自分の意思で選んだと思うけれども、あとで考えてみると、大きな運命に導かれて、想像すらしていなかった道を歩まされることもある。と、あったが、人の出会いは、偶然と運命が大きく影響すると思うんだ」
「そして、縁があれば地域や年令等に関係なく、知らず知らずのうちに、その運命に従い深くかかわって行く様な気がするんだよ」
「勿論、男なら誰しも美しい女性を望む願望があり、それは、その人によって好みが違うだろうが、最後は、そのとき自分の知識に基ずく選択と決断の問題だろうな」
「然し、素晴らしい出会いがあって夢を持って楽しく交際していても、その人の家庭的環境や職業の都合で一緒になれない場合もあるだろうしなぁ」
「世の中には、人の助言や慣習等一切無視して、映画もどきに、二人で大脱走駆け落ちなんてこともあるけれど・・」
「まぁ 僕には、そんな勇気や度胸はないや」
と、軽く酔ったせいもあり、彼にしては珍しく、思いつくままを一気に話したが、黙って聞いていた三郎は、大助の話が飛躍していて自分達の街の環境からは現実的に思えず、なんだか焦点をそがれたようで理解できずに怪訝な顔をしていた。
美代子は、囲炉裏の炭火をいじりながら耳を澄まして聞いていたが、大助の話の最後の部分が凄く気になり、若しかしたら自分との関係もそうなるのかしら。と、彼の心の深部を覗き見てしまった様で、いいしれぬ不安感で一瞬目が眩み、思わず目を潤ませてしまった。
この様子を見た寅太は、慌てて話の方向を変えようと、思わず三郎の頭を箸で思いっきり叩き
「このバカヤロウ!お前の質問は何時も的外れで、会話の調子が狂ってしまうんだ」
と怒鳴りつけ
「美代ちゃん、皆が愉快に話しているのに、なんで急に涙なんて流すんだ」
「俺。女の涙を見るのは大嫌いだよ」
と言ったところ、またもや、三郎が悪戯ぽく
「嘘いえ、時々、無理難題を言って真紀子を泣かせているくせに」
と言ったあと、話に勢いあまって
「美代ちゃんの涙は目ン玉が青い水晶玉みたいだから、俺等のと違うんだろうな?」
と冗談を言って、彼にしてみればユーモアのつもりで皆を笑わせ様としたが、これが裏目に出て、美代子の逆鱗に触れ、不安定な精神状態に火をつけてしまい
「サブチャン よしてよ!そんな表現は差別だゎ」「差別には今迄に散々泣かされたゎ」
「わたしは、れっきとした日本人ょ。サブチャンと同じだわ」
と反論すると、寅太は溜まりかねて、三郎に
「お前はガクが無いのでこれ以上喋るな」
と、彼の口に手を当てて押さえ付けて睨みつけ黙らせた。
そのあと、寅太は時折天井を仰ぎ見ながら、なんとか雰囲気をもち直そうと、トツトツとした自信なさそうな口調で
「美代ちゃん。俺や三郎は、言ってみれば雀の様で見た目は良くないが、その代わり自由に飛び廻って餌を探し求めているんだ」
「大助君は、そうだなぁ。燕の様に早いスピードで東西南北を、自分の行く方向を確実に目指して飛んでいる様に思うよ」
「それは顔には出さないものの、人知れぬ苦しみもあると思うんだ」
「美代ちゃんは、医者どんの娘で爺さんが可愛いがって、恵まれた籠の中で不自由なく餌を与えられて飼われている、カナリヤのように思えるが。けれども、何時かは、この籠から飛び出さなくてはならないんだ」
「けれどもども、雀も燕もそしてカナリヤも、皆、誰が作ったか知れないが、俺の好きな詩にあった様に
”青いお空のそこふかく 海の小石のそのように 夜がくるまで沈んでる。
昼のお星はみえぬけど、見えぬけれどもあるんだよ”
とゆうのがあるが、受ける意味は人によって様々だろうが、俺は、時々、これを思いだすと、今は街の片隅に沈んでいるが、何時かは自分の店をもとうと、不思議に夢が膨らむんだ」
「三郎も、今は見えないが、何時の日かは、施設の婆さん達もビックリする様な素敵な彼女が現れ、日夜、心を焦がす春が必ず訪れるよ」
「大助君も美代ちゃんも、これまでに何度か苦しい峠を越えてきたと思うが、まだまだ、この先、もっと高い峠を、俺達同様に難儀して越えなければならないと思うんだ」
「だから、美代ちゃんも、ちょっとしたことでメソメソするなよ」
「いいかっ! これからは大助君のスピードについて行ける様に、飛び立つ練習をしろよ」
「競泳の選手だったときの勝負根性を発揮すれば、籠から抜け出て自由に羽ばたけるカナリヤになれるよ」
「そのために、俺達に出来ることがあったら、どんなことでもして応援するよ」
と、彼にしては精一杯全知全能を傾注して、彼女を慰め励ましていた。
聞いていた三郎は
「寅っ!お前すげぇこと知ってるな」
と言うと、彼は
「俺は毎月給料を貰うとき、必ず社長の山崎センコウに説教されているからさ」
と煙に巻いていた。
涙を拭きながら黙って聞いていた美代子も、寅太の懸命な説得に漸く落ち着きを取り戻し
「寅太君、有難う。 大ちゃんの判りにくい話より、君の話のほうが、よっぽど判りやすいゎ」
「サブチャンも、悪気はないと思うけれど、只、一寸、悪戯が過ぎるゎ」 「二人は名コンビだゎ」
「さっきの詩は、”金子みすず”の詩でしょう」
「あの人の詩集”雀の母さん”もいいわネ。わたしも大好きで詩集を買って読んだゎ」
と言って笑顔を取り戻し
「時々、わたしを、不安にさせて悲しませるのは、この大助君だゎ」
と言うや、箸の先で彼の脇腹を突っいた。
大助は大袈裟に「アッ! イテテエ」と、おどけて叫んだが、顔は笑っていた。
寅太は、何とか、でまかせの話で雰囲気が和らいだとみるや、新聞紙に残った刺身やフライを少し包むと
「引越しも無事終わり、老先生や年寄り達の訳の判らぬお経も聞いたし、久し振りに同級会もして、今日はいい日だったなぁ」
「これから、熊吉の家に行き愛犬の”コラッ”におすそ分けしてやるんだ」
「コラッの奴は、恩を忘れず忠実で可愛い奴だよ」
と言って、三郎を連れて機嫌よく帰っていった。
その夜、美代子は賄いの小母さん達と後片ずけしたのち、入浴しながら大助の話を断片的に思い浮かべては、あれこれと思案した。
そのあと、丁寧に身ずくろいして大助の部屋に行き、お爺さんの計らいで新調されたベットを見て
「セミダブルでは一寸狭いわね」
と言いながら、草臥れて先にベットで横になっていた、大助の脇に入り
「わたし達、長男長女で、結婚の環境は決して良くないが大丈夫でしょうね?」
「さっき、彼等に話していたことが気になって・・」
と、話掛けたが答えずにいる彼に
「今朝、母さんと婦長の節子さんが君の家にお邪魔して、事情を説明しているのょ」
「結果が心配でたまらないゎ」
と、話を蒸し返すと、彼は
「まだ、そんなこに拘っているのかい。只管、忍耐強く努力するのみだよ」
「僕は、自分の判断で決断したことに、最後は皆が納得してくれると思うよ。だから、全然心配なんかしていないや」
と答え、更に
「それより、僕達が結婚するまでには、例えば昨年二人で初めて旅行した箱根の乙女峠や十国峠等の様に険しい難所を越えなければならない難問が控えているが、超えたあとには素晴らしい景観が眺望できるように、辛く苦しいことがあっても二人で努力すれば、その彼方には必ず幸せがあると信じているので頑張ろう」
「それが、僕達に与えられた運命だよ」「今はそれを目指して毎日勉強に励むことだなぁ」
と言ってくれたので、彼女は大助の揺ぎ無い自信に満ちた言葉に安心感を覚え
「わたし、どんなことがあっても、大ちゃんについて行くゎ」
と言ったあと
「スキッ! アイシテイルヮ」
と小声で囁き、彼にしがみついて離れようとせず、自分の部屋に戻ろうとしなかった。
母屋に近い、小川の絶え間ないせせらぎの音と、何処か遠くで啼いているフクロウの声が、静寂な山里の郷愁を誘い、彼等は深い眠りについた。