花がいっぱい。

どんな花も無心に
咲いているから素敵なんだって。
無心になんかなれないよ。
どれもこれも気になっちゃってるんです

翻案劇 『サロメ』 千穐楽

2009年10月25日 | 芝居
25日千穐楽
3度目の観劇で一階後方センター席。
初日以来舞台上の森山さんの修験者中心(2回目までヨカナーンにあたる預言者と勘違い)に鑑賞となるのですが、今回は、座った席から舞台全体が視線に入ってくる。
そこではじめて修験者と妃の娘(サロメ)が、舞台上で同じ動きをするようなダンスもあったんだ。と知った。
そして、楽になって舞台全体の流れがつながったかのようにも見えた日だった。

でも・・もっとエロスというのでしょうか、もっと耽美な雰囲気があってもよかったのではないかな?とサロメという作品に対する想い。
日本でも谷崎潤一郎の小説があるけれど、三島由紀夫にもその世界を感じます。
見てはいませんが、篠井さん前回「サド侯爵夫人」も演じられてるとか。
そこでなぜあえてオスカーワイルド「サロメ」を和ペーストにして、サロメの耽美さを見せなかったのか?
和にそのベースがないわけではないゆえ不思議に思えた。

今回修験者として登場した森山開次さんがいるから?
それはないでしょう。
彼のソロダンスで、「ベルベットスィート(The Velvet Suite)」では、エロスという言葉がキーワードにもなっていたもの。
耽美とは、少々違うけれど・・そういう世界にもなるはずだけれど、あえてそこを修験者のダンスでは表現せす、修験者というイメージの世界だけにこだわったかんじ。
ゆえに彼のダンス(パフォーマンス)は、修験者としての怪しさだけを強調したものではなかったかと?
それは和を強調するため、彼のしなやかな、やらかい動きによる精霊のような動きではなく直線的な鋭い動きになったもの。
初回には卍を表現か?と思ったが、それ以外にもいろいろな占いのろいなど、腕による表現の面白さが、やはり正面ならでは・・と思ってしまった。

そんな修験者に対し・・サロメが見せる、いえ見せなければならない耽美性は?
あえて物語の流れのために封印だったのか?
そんな~~サロメなのに?
せめて日舞という場面で見せてほしかったかもしれない。
日本舞踊でも男女を表現振りなどはいくらでもある。

言葉・・台本はあいかわらずおもしろさを感じない散文詩。
申し訳ないが・・森山開次目的の私、3度目にして眠くなってしまった。


帰り道あの首がね・・ってはなしている若い女のお子のグループがいたけれど、修験者の首といってもねえ・・
なにかイマイチだった私。それくらいでは、エロス感じないし、怪しさもない。
これはあえて演出の意図?

なんだかもったいないなあ・・そんな気持ちでカーテンコール拍手を送った。


オスカー・ワイルドの生涯―愛と美の殉教者 (NHKブックス)
山田 勝
日本放送出版協会

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