この本は最近読んだ本ではなく、高校生の時に読んだ本なのですが、今回軽くこの本について書いてみようと思います。
中島義道はまず、冒頭で「弱者」を定義し、そして、「善人=弱者」であるとします。
以下冒頭部分引用。
まず私なりに「弱者」を定義しておこう。
弱者とは、自分が弱いことを骨の髄まで自覚しているが、それに自責の念を覚えるのでもなく、むしろ自分が弱いことを全身で「正当化」する人のことである。
これは、オルテガの「大衆」の定義にほぼ一致する。
大衆とは、よい意味でも悪い意味でも、自分自身に特殊な価値を認めようとはせず、自分は「すべての人」と同じであると感じ、そのことに苦痛を覚えるどころか、他の人々と同一であると感ずることに喜びを見出しているすべての人のことである。
(『大衆の反逆』神吉敬三訳、ちくま学芸文庫)
これ以上明確な定義はないが、頭の固い鈍感な読者のために、確認しておこう。オルテガの言う「大衆」を「弱者」に置きかえると、弱者とは「よい意味でも悪い意味でも、自分自身に特殊な価値を認めようとはせず、自分は弱者と感じ、そのことに苦痛を覚えるどころか、そう感ずることに喜びを見出しているすべての人のことである」。
「私(俺)は弱いから」という理由を、臆面もなく前面に持ち出して、それが相手を説得し自分を防衛する正当な理由だと信じている人、自分が社会的に弱い立場にいることに負い目を感ずることがまるでなく、それから脱する何の努力もせずに、むしろ自分の弱さを当然のごとく持ち出し、「弱者の特権」を要求する人のことである。
すなわち、弱者とは、自分の無能力を、自分の無知を、自分の怠惰を、自分の不器用を、自分の不手際を、自分の人間的魅力のなさを、卑下せず恥じないばかりか、「これでいい」と居直り、そればかりか「だからこそ自分は正しい」と威張るのだ。
いや、真相はもう少し違う。このあたりは目を凝らして観察しなければならない。彼らはじつは、身体の深部に至るまで(自覚のあるなしにかかわらず)「卑下し、恥じている」。なぜなら、ちょっとでも強者が「あなたは貧乏人だから」とか「きみは学歴がないから」とか「あんたは無能だから」と、はっきり言わないまでも、それを臭わす発言をするや否や、突如顔は憎悪にこわばり、相手を血走ったまなざしで見据え、「一生許さない!」と心に誓うからである。あるいは、生きていくことができないほど打ちひしがれるからである。
強者なら、至るところからたえず批判を浴び、そのことに慣れざるをえないのだが、弱者に対してはみんな腫れ物に触るよう対処するので、ひとたびはっきり批判されると(「本当のこと」を言われると)びっくりして声も出なくなる。だから、弱者はますますのさばり、反省しないのである。
したがって、弱者とは、自分の弱さを「正当化」し、自分の無知、無能力、不器用、不手際、魅力のなさに気が付いているのであるが、それをちょっとでも責める他人の視線に遭遇するや、その傲慢さを見識のなさを、優しさのなさを、徹底的に責め立て、袋叩きにし、けっして許さず、血祭りにあげる人のことである。オルテガは、大衆のこうした凶暴性をしっかりととらえている。
大衆は―その密度とおびただしい数とを見れば誰にも明らかなことであろうが―大衆でない者との共存を望まない。いや、大衆でない者に対して、死んでも死にきれないほどの憎しみを抱いているのである。
(同書)
どうも、私の実感からすると、現代日本においては大衆のこうしたネガティブな力が加速度的に増大しているように思われる。
そして、オルテガの定義による大衆は「すべての人」と同じでありたいと熱望するのであるが、弱者はそのわずかに「下位」に位置することを自覚しているゆえに、「他の人々と同一であると感ずる喜び」が奪われ、もう生きていく気力がなくなってしまうのだ。
大衆という種族のうち「下位」(しかも大幅にではなく、少しだけ平均より下位)に属すると自覚している者こそ、私の定義する「弱者」なのである。
引用が長くなってしまいましたが、以上のように中島義道は「弱者」を本書に於いて定義し、これを「善人」であるともする訳です。
そして、「弱者=善人」たちは、自分の弱さを正当化し、すぐに弱いものいじめをし、群れをなして権力を握り、自分と異質なものを排除し、同情されたいが故に他人に同情するのだ、とします。
さらには、このような「弱者」の行動理念とは「ラクをしてトクをしたい」ということなのである、としています。
このような、「弱い人」たちに対して異様にルサンチマン(恨み)を抱き、そうならないようにと願い、出版物などの文面においてのみその激しい「本性」を見せ、「同情」すること、されることに対する異様なまでの嫌悪感を抱いてそれを非難しつつも、結局は自分の中の「弱者性」を消すことが全くできずに、現実世界においては全く自分の「礼儀正しく、柔和で優しい」態度を変えることができず、自分の中の「同情心」を消すことができなかったのが、かの有名な哲学者、ニーチェである、と中島義道は本書を通じて説明しています。
結局、ニーチェというのは、最後は狂ってしまう訳ですが…。
もしかしたら他人との関係性に於いて悩み、自分の弱さを憎み、「強さ」を求めてそれを解消しようともがくような人間の末路というのはこのようなものなのかもしれませんね。
もし興味があれば、この本も読んでみると悪くないかもしれません。
読んで下さり、ありがとうございました。