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いわゆる「無敵の人」に関する愚考。~中島義道「悪について」感想にかえて~

「無敵の人」。

 それは、人間関係や社会的地位といった失うものをもはや何も持たないがために、罪を犯すことにも自らの命を失うことにすらも一切の躊躇いを見せずに狂気的犯行に及ぶ者、と説明できます。

2021年の年末に大阪の心療内科クリニックにてそのような人物による無差別殺傷事件が起こったことを覚えている方も多いと思います。

 

このような犯行が起こると常に巻き起こる議論があります。

 

それは、主に2つの方向からの意見からなります。

1つは、「自己責任」論による、起こった犯行の原因は個人の責任の範疇であり、犯人が全て悪いとする意見。

もう一方は、いわゆる「社会が悪い」理論で、このような犯行を起こしてしまう個人を生んだのは歪んだ社会であるという意見。

事件が起こるとこれらの考えが念頭に置かれた意見による議論が高まることもあろうかと思います。

しかし私はこれらの意見は共によく考えられていない意見だと思っています。

 

なぜか。

 

それは、「犯人を裁く意見も社会を弾劾する意見も、共に『自らの悪』に目を向けていないように感じられるから」となります。

この記事では、中島義道の「悪について」という本を紹介する形で上記の考え方を説明していきます。

 

 

その前に。

ここで前置きしておかねばならないことがあります。

それは前提として、感情的で個人を弾劾するような意見を発してよいのは事件に巻き込まれた当事者とその関係者だけであるということです。

従ってこの記事において挙げる私の意見は、あくまで「直接的には巻き込まれていない個人」としてのものです。

では、本題へ入っていきましょう。

 

すでに述べたように上記2つの意見、「自己責任」論と「社会が悪い」論は、「自らの悪」に関する考えが浅いように思います。

すなわち、犯人個人を責めることも、社会を責めることも、自分はそういった「悪」とは無関係だと思っているという意味において共通しているということ。

中島義道は著書「悪について」において、残酷な事件について以下のように述べています。

 

私がはなはだしい違和感を覚えるのは、こうした残酷な事件について語るレポーターやニュースキャスターたちの鈍感きわまるふるまいである。一様に、異常事態に驚き呆れたという顔をし、沈痛な面持ちで現代日本人の「心の荒廃」を嘆き、「どうにかせねば」と提言する。あたかも、自分はこういう悪とはまったく無縁の安全地帯にいるかのようである。自分の血液の中には悪が一滴も混じっていないかのようなそぶりである。犯人を異常な者、自分を正常な者とはっきりと区分けしたうえで、彼(女)の行為の恐ろしさをこれでもかこれでもかと力説する。それに留まらず、社会がこういう人物を生み出してしまったことを嘆き悲しむ。

(中略)

彼らの言動を膨大な「善良な市民」たちが支えている。自分を何の躊躇もなくまともな人間の側に置き、犯罪被害者に心からの同情を寄せ、犯人に不思議な動物でも見るかのような視線を注ぐ。この安定した絆が永遠に続くとでも思っているかのような自信に満ちた態度である。自分の中の悪を見ようとしない彼らは有罪である。自分の中の悪に蓋をして他人を裁く彼らは有罪である。

 

この引用部分において言っていることはつまりこうであると私は解釈しています。

 

「『異常な』人間、『みんなと違う人間』に対して自分とは全く違う人、理解不能な人間として自分たちとは全く違うところにおいて語ろうとするけれど、それは明らかな間違いである。」

 

ここで、説明は必要になってきます。

この赤字部分における「異常な」人間とは、犯罪行為を行う人間含め、道徳的にみて善くないと思われる行為をする者も指しています。

そのような「異常な」人に対して、まるで自分とは全く違う人間のようにして裁く行為、それは、自分の中の悪に対する考えの浅さに由来します。

 

そもそも、「犯罪行為」を行わない人は、そのまま「悪」と無縁の人なのでしょうか。

あるいは、「道徳的に悪いと思われそうな行為」をしない人は、そのまま「悪」と無縁の人なのでしょうか。

 

中島義道によれば、哲学者カントは、以上のような「犯罪行為」も、「道徳的に悪い行為」も共に侵さない者こそ、より「悪い」と考えたようです。

 

 カントがもっぱら矛先を向けたのは、外形的に適法的行為=義務に適った行為を完全に成し遂げながら、同時に自己愛という動機に支配されている人間である。彼らは、社会的に「賢い」からこそ、より危険なのであり、社会的に報われているからこそ、より悪いのである。

 こうして、カントにとって、嘘と欺瞞で固めた卑劣漢も、放火常習犯も、強姦常習犯も、狡猾な日和見主義者も、弱者を足蹴にしてのし上がる冷酷無比の企業家も、権力に安住している官僚も、悪徳政治家も、悪のモデルではない。

 そうではないのだ。常に外形的に善いことをなし、如才なく、弱者を助け、刻苦精励これ努め、約束はきちんと守り、あらゆる法律を守り、そして賢明に穏やかに生き続ける善良な市民こそが悪のモデルなのである。彼(女)が最も悪いのである。外形的に善いことをしながら、内部には巧妙な自己愛の水路が築かれている。その巧みなしたたかさが悪の典型なのである。

 

 

「無敵の人」の犯した犯罪そのものは明らかに悪いことは言うまでもないことですが、それを引き起こした個人を非難する声も、社会を非難する声も、自らは「善い」人間だと信じて個人あるいは社会を弾劾しています。

しかしながら、そのような「善い」人間こそが実は「悪い」のです。

なぜなら、「外形的に善いことをしている」ということに対する「うぬぼれ」の気持ちがかならずあるから…。

 

結局、人間である以上、「悪」と無縁ではない。

 

それは「無敵の人」と自分たちを全く異質のものとして扱っていては分からないことです。

 

いつか過去の別の記事でも書いた記憶がありますが、自分とは全く異なる他者を想像できることが大切なことであると考えます。

今回も読んでくださりありがとうございました。

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