「人間失格」を読んだ人の多くはその作品のうち一部でも、妙にシンパシーを抱いてしまうらしいのだが…
それにしても自分の弱さを武器にするという強さ(?)を持つ人というのはどうもいけない。
「人間失格」のような作品を世に出すなら、そのあと自殺してはならなかったのだ。そのあとも自殺せずにいたなら彼に対する印象も全く異なるものになっているに違いない。もし自殺するというならあの夏目漱石の「こころ」に登場する、「先生」のようにせいぜい誰か一人くらいに自分のことを伝えておいて(それでも相当罪深いが)、一人だけで誰も巻き込まずひっそりと死ぬべきなのであって、あのような公開懺悔みたいなことをしてしまってはいけない。
私が太宰治の文学に対して抱いている嫌悪は一種猛烈なものだ。第一私はこの人の顔がきらいだ。第二にこの人の田舎者のハイカラ趣味がきらいだ。第三にこの人が、自分に適しない役を演じたのがきらいだ。女と心中したりする小説家は、もう少し厳粛な風貌をしていなくてはならない。
私とて、作家にとっては、弱点だけが最大の強味となることぐらい知っている。しかし弱点をそのまま強味にもっていこうとする操作は、私には自己欺瞞に思われる。どうにもならない自分を信じるということは、あらゆる点で、人間として僭越なことだ。ましてそれを人に押し付けるにいたっては!
太宰のもっていた性格的欠陥は、少なくともその半分が、冷水摩擦や機械体操や規則的な生活で治される筈だった。生活で解決すべきことに芸術を煩わしてはならないのだ。いささか逆説を弄すると、治りたがらない病人などには本当の病人の資格がない。
上記の文章は三島由紀夫が太宰治について触れた文章である。
太宰の自殺はこの七年前のこと。三島は自然に太宰と自分を重ね合わせ、「弱さによって死んでたまるか!」という思いがあったのではないだろうか。そのため、彼は太宰と全く逆の道を進み、空手をし、筋肉を鍛え、自衛隊に体験入隊した。そして、強くなって自決したのだ。
三島は自分の「弱さ」を武器にして文学を続けることに耐え切れず、必死の思いで強くなった。しかし強くなってみると、根っから弱い者が無理に外見だけ強くなったにすぎないことが分かった。太宰を「田舎者のハイカラ趣味」と蔑んではいるが、彼自身どんなに外形的に強くなっても所詮「弱者のツヨガリ趣味」に過ぎなかったのだ。
三島由紀夫は自分があまりにも弱いことを自覚していたからこそ、太宰に自分を投影して激しく憎み、身のほど知らずにもそこから無理に脱却しようとして自己破壊(自決)に至ったのだろう。
三島由紀夫の引用文から後は完全には僕の考えではないのだが…。
結局、太宰治を好きになれない人なんて同族嫌悪に過ぎないのかも 笑
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