今回はその考察を行いたいと思う。
「君たちもたいてい蟹なんですよ。」
この文章の前に、芥川は「とにかく猿と戦ったが最後、蟹は必ず天下のために殺されることだけは事実である。」と語っている。
人間がたいてい蟹である、というのは多くの人々が勧善懲悪の物語に魅力を感じてまうことや、勝てば官軍とはいえどもどうしても判官びいきなところがある我々日本人の習性などを考えれば案外感覚的に理解できるかもしれない。やはり、心理的には蟹の味方をしてしまうし、実際に理不尽な仕打ちを受ければ復讐を考えてしまうのが人間というものだろう。最後の文章はそれを示しているものだとも言える。
だが、蟹は猿に逆らったら「天下のために」必ず殺されてしまうのである。
この部分から、我々国民は国家権力には逆らえない、一部の人間によって社会はコントロールされているのだ、という解釈が成り立つといえる。
が、これではこの話から学んだことを実生活に活かすのが難しい。というのも、実際に社会で生活している多くの人間は結局権力には逆らえないということはしっかり理解しているものであるし、初めから逆らおうともしないからだ。これはそれぞれの人々に自分の生活もしくは支えなければいけない大事な人間がいるからであり、権力に逆らうという暇などないためだ。芥川がこれを書いた当時の大正デモクラシーの風潮を考えればこの解釈が妥当であるともいえるが、今の時代の解釈としてはそぐわないかもしれない。(政治に対して何らかの意見を持って、実際に活動している人にとっては必要な解釈かもしれない。しかし、そんな人は今は少数であろう。)
ならばと、もっと小さいスケールで考えて、「自分より強い力をもつ人に逆らうのは得策でなく、理不尽な仕打ちを受けたとしても結局泣き寝入りするしかないのだ」と考えてみる。これは的を射た教訓ではある。前回も書いたように社会生活を営んでいく上で、理不尽な仕打ちは誰でも受けるものでありそれに対していちいち復讐などしていては身が持たない。そのため、泣き寝入りというのは大人が自立していく上で必ずどこかでしなければならない、ということなのだ。
そこで、僕たちが「たいてい」蟹であるというこの表現が活きてくるように思われる。
これは裏をかえせば、猿になることもあるということでもあるのだ。
たしかに理不尽な仕打ちをうけたと感じることは誰しもある。しかし、理不尽な仕打ちを自分にした、その相手に対しても、当然理不尽な仕打ちをする者がいるはずなのだ。これは、自分より強い立場の者が必ずどこにいてもいるということを考えると当然のことでもある。
この話を読んだ、「弱い」人々が、「どうせ泣き寝入りするしかないのだな」と現実を再認識することは重要であると思う。しかし、それが単に「猿」である側の人間に対する批判または「蟹」にしかなれない自分に対する失望だけで終わらせてはならないと僕は考える。誰しも生きていく上では、必ずどこかで誰かに理不尽な思いをさせているものである。そのことは理解していても、どうしても自分を被害者だと考えてしまうことがやはり多いのではないだろうか。これはある程度仕方のないことではあるが、自分が誰かにとっての「猿」になっている可能性も考えなければならないと思う。それが、意識的である人も、無意識に結果的にそうなっている場合もあるだろう。しかしいずれにせよ、自分を常に被害者に置く考え方では成長はないように思われる。自分の行動がどのように他人に対して影響しているのかを考えることで想像力を鍛え、他人に対する配慮をしていこうという姿勢がないからだ。
どんな生き方をしていようが、他の何かを犠牲にして生きているということから目をそらしてはいけない。
「猿蟹合戦」の最後の文章からは、自分を被害者においてしまいがちな多くの人々の考え方に対する警告を読み取ることができると思う。
長くなりました。
読んで下さりありがとうございます。
最新の画像もっと見る
最近の「本」カテゴリーもっと見る
最近の記事
カテゴリー
バックナンバー
人気記事