”雲八ねえさん”の歴史スポットめぐり

”本能寺の変”の時、大嶋雲八はどうしていた…?

大河ドラマ”麒麟がくる”も来週が最終回…。

最終回はクライマックスの”本能寺の変”です。

 

なぜ光秀が信長を討ったか…?

本当は自分が天下をとりたかった”野望説”、

ブラックな信長への怒りが限界に、”怨恨説”、

朝廷黒幕説、室町幕府黒幕説など、

いろいろありますが、大河ドラマでは

どのように描かれるのでしょうか…?

 

1年以上続いた大河ドラマ”麒麟がくる”も

これで終わっちゃうのが残念のような気も…。

 

 

ところで、明智光秀と同時代を生きて、

斎藤道三、織田信長との主従関係もある

関の戦国武将、大嶋雲八に関してです。

 

雲八さん、大河ドラマにちらっとでも

登場するかと1年間期待して見ていましたが、

結局、1回も登場しませんでした。

 

さて、雲八さんは93歳という高齢で

関ヶ原の戦いに参戦した戦国武将ですが、

”本能寺の変”の時、どうしていたか…?

 

江戸時代の資料、”寛政重修家譜”を調べると

”本能寺の変”あたりの雲八さんの記録が

いろいろ出てきました。

 

「(天正)10年、右府(信長)事あるのとき

(本能寺の変)、光義(雲八)安土の城に

在城中の士卒騒動し、守ることあたわずにより

各妻子を具して国々に遁去。」

 

 

本能寺の変の時、雲八さんは75,6歳…。

随分、お年を召していたのですね。

信長公のお供は命じられず、安土城で

お留守番を命じられていたようです

 

信長公が討たれたとの知らせを聞いて、

安土城の将兵たちが混乱する中、

妻子と共に故郷である関に逃れたとのこと…。

 

一揆勢に遮られながらも、大勢の敵を倒し

無事、関に帰ったと記録にありました。

 

そのあたりは歴史小説”93歳の関ヶ原”にも

詳しく描かれていました。

この本、久しぶりに読み返してみると

まるで大河ドラマを見ているような

リアルな感覚がありました。

 

雲八さん、信長公にお供して、

本能寺に行かなくてよかったです。

でも、もしお伴をしていれば…、

雲八さんが弓で多くの敵を倒している間に

信長公は逃げきることができたかも…。

 

 

さて、日蓮宗本山の冊子”要法”には、

雲八さんの菩提寺、岐阜県関市大雲寺と

雲八さんの記事が掲載されていました。

 

またこれで、雲八さんと関、大雲寺

ちょっとずつ知名度UPかな…?

嬉しいことですね。

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