マルクス剰余価値論批判序説 その9
7、物象による媒介
さらに、社会は、物象に媒介されることによって成り立っている諸個人の連関であり、ゲマインシャフト性が人間から疎外されて物象のものとなっている状態である。物象こそがゲマインシャフトをなしており、人間はそれに支配されることによって、間接的に共同存在でありうるにすぎない。
この、媒介されている状態を社会とするか、それとも媒介を抽象して単なる諸個人の連関を社会とするのか。ここでもマルクスは揺らいでいる。どちらをも、社会的であると一言うのである。
『資本論』においても、社会的であることの曖昧さは、克服されていない。それどころか、さらに混乱が深まっている。
まず、商品の価値は、ゲマインシャフト的であるとともにゲゼルシャフト的でもあるような実体の結晶であると言う(14)。これは、商品はゲゼルシャフト的すなわち孤立的・個別的なものだが、価値はその個別性を解消せずに孤立性を止揚したゲマインシャフト的なものであるということの、きわめてまずい規定である。
マルクスは、商品から始める。しかも、階級関係ではない私的交換の商品から始める。しかし、商品の私的交換は、階級関係がなければ存在しないことは、マルクスが以前に確認したことである。
マルクスは、階級関係ではない商品から始め、階級関係ではない貨幣を説明し、階級関係ではない剰余価値の創出を論証する。階級関係は、剰余価値の創出の謎が暴露された後で、初めて明らかにされる。
このような、マルクスの叙述の展開の方法は、いわゆる上向法や弁証法によってなされたものではない。マルクスの社会観によってなされたものである。
マルクスにとっては、社会が基準であり目標である。マルクスは社会を、独立した個人的人間たちの関係としてのゲゼルシャフトを、求めるのである。それは、没個性的な、非自立的な、類的一体性としてのゲマインシャフトから発展したゲゼルシャフトの進歩性に対する、絶大なる讃美である。
マルクスは、ゲゼルシャフトの成長期の思想家であった。ゲゼルシャフトが全世界に拡がりを見せようとする時代の、思想家だった。
たしかにマルクスは、ゲゼルシャフトの進歩性と共に、その矛盾をも看取した。しかし、ゲゼルシャフトを絶対的なものとすることによってマルクスは、その矛盾そのものがゲゼルシャフトであるとはせずに、矛盾を止揚したものもまたゲゼルシャフトであるとしたのである。
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