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後醍醐の昆布 その12

2021年02月03日 | 小説

 それが北の方である事を、二人の皇子は玄観に耳打ちされた。玄観は文観の弟子で、密命遂行のために遣わされた僧である。

「この時節は海が荒れるので、船は向かいの常宮浦に繋いでおりますが、我らは海の男ゆえ、必ずやお役目を果たしてみせます」

 鎧を着た神人が言った。神人と紹介されたが、船戦の強者であると見える。

「見た事のあるような顔だが‥‥」

 尊良が、その神人に訊いた。

「ここの主人は近江の出で、手前は日吉社の神人を兼ねております。昆布衆の頭を致しておりますので、主上のもとへも幾度か参上仕りました。その折に、一宮様の目に止まったものかと」

 そう言われて、尊良も思い出した。

「そうか。しかし船の件は、武士どもには‥‥」

「承知致しております。気比社の裏山にある山城は、崖下がすぐに海で、城から抜け出せば船に乗るのは容易です。小舟で沖へ漕ぎ、大船に移れば追っても追いつけません」

 昆布衆の頭は剛直な上に、親王への信奉も篤そうに見える。商人よりも信頼できるのはないかと、尊良は思った。

「お前の名は?」

 尊良が昆布衆の頭に訊いた。

 一宮尊良は後醍醐の長子であり、既に二十代の半ばを超えており、笠置山では後醍醐と共に捕らわれ、土佐に流されもしていた。ただの親王ではなく、昆布衆の頭とも一対一で対応しうる器量の持ち主である。

 本来なら後醍醐の後を継いで天皇となるのは一宮の尊良なのだが、後醍醐は廉氏を寵愛しているため、簾氏との子である恒良が皇太子となり、叡山出発前に践祚の儀も済ませている。しかし恒良はまだ幼く、昆布衆の頭も先ほどから尊良を相手に話している。衣冠ではなく、人を見て話をする男なのだ。

「手前の名は、阿部時元と申します」

 昆布衆の頭が、平伏して答えた。

「阿部とは?」

「斉明天皇の御時、手前どもの先祖阿倍比羅夫が敦賀より船を出し、蝦夷を平定致しました。その時より蝦夷の昆布のお役目を受け、代々昆布衆の頭を務めております」

「時元よ、面を上げよ。何と、阿部比羅夫は、出羽までではなく、蝦夷島へも行っておったのか」

 阿部比羅夫の伝説は尊良も知っている。

「はい。敦賀より出て、能登・佐渡の軍船を集め、出羽の地に砦を設けました。そして更に北へ向かい、蝦夷島へ渡りました。ありがたき事に、蝦夷島に敵は無く、朝廷に貢献する者ばかりで、交易も平和に行われたと伝わっております。近頃は関東からの流罪者が増えましたが、管領の安東一族により治められております」

「なるほど。蝦夷島は良い所か?」

「寒さは堪えますが、住めば都と申す通りで、手前の息子や娘も、戻ろうとしません」

「そうか。是非、行ってみたいものだ」

「手前が命にかけて、お連れ申します」

「うむ。頼んだぞ」

尊良が時元をしかと見つめ、時元も澄んだ目で返し、深々と頭を下げて退出した。恒良は取り残されて不貞腐れ、察した付き人の公家たちが機嫌を直させようとした。

 

 一晩を町家で過ごしただけで、二皇子と新田の軍勢は山城へ入った。敵が迫って来ているのである。

 義貞は城を固め、息子の義顕を越後へ、弟の脇屋義助を近くの杣山(そまやま)城へ遣わした。援軍を得るためである。

 敦賀の山城は金ヶ崎城という。この城は小高い山の上にあり、城へと上る山道の他は、二方が谷を挟んで山が連なり、残る一方は海へ落ちる崖になっている。

攻めようのない不落の城であった。

 敵が攻め寄せれば上から矢の雨を降らせ、岩で押し潰す。しかし、こちらから討ち出る事は難しい。それでも水食糧は十分に運び込まれており、三月や四月は持ち堪えられる。それまでには援軍も到着し、戦況も変わる筈だ。

 義顕と義助がそれぞれ軍勢を率いて北へ発つと、それから間もなく金ヶ崎城は南から押し寄せた敵軍に包囲された。七里半越えの峠を固めていた敵軍が、義貞軍が別の道で敦賀に入ったのを知って金ヶ崎城へ攻めて来たのである。

尊良は城に入ると、直ぐにでも義貞の目を逃れて船に乗ろうと隙を窺っていたが、敵兵に包囲されていては身動きが出来ない。それに義貞は恒良を本物の天皇と信じているから恒良の側を離れようとしない。尊良一人だけでも昆布衆と今後の作戦を練らなければならないが、尊良が恒良と別行動を取るには義貞を納得させるそれなりの理由が要る。しかし敵が攻めて来ている混乱した状況では、なかなか良い案が浮かばない。今は義貞よりも外の敵兵が問題であった。

城の外では、時元ら昆布衆が尊良の出て来るのを待っていたが、敵兵の包囲にあっては無理な事と思い、敵兵を退散させる方策を思案していた。

敵兵は数こそ多いが、寄せ集めの雑多な集団であり、統制はとれていない。

 



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