マルクス剰余価値論批判序説 その26
4、〈労働ー労賃〉図式
しかし、実はここに、大きな落とし穴がある。
マルクスは、プルジョア経済学と同様に、労働が支払われるものであることを認めている。全額か一部かの違いはあるものの、労働が貨幤によって買われている、労働に貨幣が支払われていることを、自明な前提としてマルクスは、剰余価値論を組み立てているのである。
労働(労働力)が貨幣で買われる(売られる)ものであるという、資本制生産に独自なイデオロギーを前提にして、労働(労働力)が一定額の貨幣と交換に取得されることの超越性を、プルジョア経済学と同様に無視して、剰余価値の謎が解き明かされるのである。
労働に対して貨幣が支払われる、労働すれば貨幣が得られる、労働にはそれに見合う貨幣が支払われて当然だ、労働には正当な貨幣額が与えられるべきだ、などと言うのは、資本制生産社会に独自の意識であり、まさに資本制生産関係の社会意識である。
このような意識と、それに照応する剰余価値論をこそ、マルクスは批判しなければならなかったのだ。
奴隷制では、労働者の労働は労働者ごと取り上げられる。封建制では、労働者の労働のある部分が取り上げられる。資本制では、労働者の労働の全てが取り上げられる。奴隷制と資本制との違いは、前者が労働者ごと全ての労働を取り上げるのに対して、後者は労働者の労働だけを全て取り上げる、ということである。したがって、労働力の再生産は、前者では奴隷主が直接行い、後者では資本家がそれに必要な貨幣額を労働者に渡す形で問接的に行われる。したがって、労働者が自主的(!)に自分たちの再生産を行なっているように見える。
労働が支払われるのではない。賃金は労働(労働力)の対価(正当な額かどうかに関わりなく)ではない。
マルクスは、労働が支払われることを直接には問題にしないので、貨幣関係の役割を取り違える。
労働賃金という形式は、労働日が必要労働と剰余労働とに分かれ、支払労働と不払労働とに分かれることの、一切の痕跡を消し去るのである。すべての労働が支払労働として現われるのである。……賃金労働者の無償労働を貨幣関係が隠すのである。(10)
貨幣関係(貨幣形式)が隠すのは、賃金労働者の部分的無償労働ではない。労働賃金という形式は、支払労働と不払労働という区別の痕跡を消し去ったりはしない。全く逆である。労働賃金という貨幣形式は、賃金労働者の不払労働を明るみに出すのである。それによって、労働が支払を受けるものであるという意識を、生じさせるのである。
賃金労働者で、自分の労働の全てが支払われていると考えている者が、いるだろうか。一切、無償労働はしていないと思っている者が、いるだろうか。自分の労働の一部が、資本家などに搾取されていると思わない者が、いるだろうか。
マルクスが、貨幣関係は労働者の無償労働を隠しており、労働者は労働賃金という形式によって、労働の全ての対価を受け取っているかのように思い込まされているのだと言っても、労働者は自分の賃金がそのようなものだとは、思っていないのである。
労働賃金という形式、あるいは貨幣関係は、労働が支払われるものであることや、労働が価値であるという意識を植えつける。そしてさらに、賃金額が実際の労働の価値から離れていることをも、意識させるのである。
この、実際の賃金額が不当ものであるという意識は、労働が価値である、労働は貨幣で買われるという意識を、いっそう強固なものにする。
マルクスが一言うのとは全く逆に、労働賃金という形式は、労働が商品であり、労働は貨幣で買われるものであり、労働は正当な対価を受け取っていない(できるだけ安く買おう、できるだけ高く売ろう)という意識を、労働者にも資本家にも植えつけるのである。
したがって、労働者が、自分の労働は全ての対価を受け取っていないと気づくことは、まさにプルジョアイデオロギーに絡め取られることなのである。不払労働にも支払え! 無償労働の搾取を廃止せよ! という、マルクスの剰余価値論から直接に発生する要求は、労働が貨幣で買われるという資本制生産の基礎を、何ら傷つけないどころか、ますます強固にするのである。(11)
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