毎度のことだが、楽しいひと時の後やって来る別れくらい悲しいものはない。覆いかぶさってくる空しさは容赦がない。
そう感じるのも、送り届けた後に電車に揺られて夜のとばりの中を戻ってくるという所在のなさにも関係しているのかもしれない。
ともかくレールの継ぎ目を通る時の音がやけに大きく聞こえる夜汽車ってやつは人の心になかに入り込んでくる達人である。
持って行った本は読む気にもなれず、考え事を初めてもすぐにうつろな自分に気づき、ただただ見えない外を見るともなく眺め、カップ酒をあおりながらぼんやりしていると、そのうち夜汽車の揺れに同化して行ってしまい、気付いたら戸塚駅の手前辺りまで来てしまっている。
どこら辺りからこうなったかの記憶はない。
大宮とか東京とか大きな駅にも止まっているはずだが、記憶にない。
酔っぱらって寝入っただけじゃないかと言われるかもしれないが、それとはちょっとばかり違うんである。
その辺りの違いの説明はさておき、やがて何の記憶も残らなくなる時、ヒトの多くは枯れ果てていくのだと思う。
夜汽車に揺られるということは、その練習をしていることのように思えるのだ。
今朝も寒い。
デジタル温度計を外に出しておいたら午前5:30の外気温は0.5度である。
昨日はマイナス2.5度だったからそれに比べれば…だが、氷点下近くまで下がれば1度や2度の違いはどのみち大した差ではない。
北の友人たちには笑われるかもしれないが、南関東の海沿いの町で氷点下近くになることは稀なのだ、
それが今冬は12月28日の―2.8度と合わせて2日も氷点下を記録しているくらいで、先が思いやられるのだ。
おまけに、今朝は午前8時から初坐禅である。
円覚寺のある北鎌倉の谷戸はことに寒いのだ。
廊下の板敷は冷え切っていて氷のようになり、素足には痛いくらいの冷たさなのだ。
「超極暖」という下着が売られているらしいが、チマタではその手前の「極暖」を2枚重ねすれば十分に暖かいというので、そんな高い下着は必要ないという都市伝説が出来つつあるのだという。
今朝はその都市伝説とやらに従ってゴクダンの2枚重ねをして出かけるつもりである。ひざ丈くらいのズボン下も履いていこうと思う。
もちろん簡易カイロも下着に張り付けるつもりだ。
修行という観点からすれば随分と自堕落なことだが、ジジイは許してもらうしかない。
戸が開け放たれた暖房のない大方丈で2時間、じっと寒さに耐えなければならないのだ。
そして5日に書いたばかりの「四智円明」を心に刻みながら坐ってこようと思う。
姫を送りがてら立ち寄った上野動物園でゴリラに「オトコの背中」を見てきた
オトコの横顔
シャンシャンには会えず、父親のリンリンは御覧の通りお疲れのご様子
水の中のシロクマは見ているだけで寒い
バクは夢の代わりにササの葉をむしって食べるのに余念がない。現実派のようである
最新の画像もっと見る
最近の「随筆」カテゴリーもっと見る
最近の記事
カテゴリー
バックナンバー
人気記事