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平方録

海の上の細道を歩く♪

今を遡る事200年以上も前のこと、江戸で暮らす人々の間に「江ノ島詣で」「江ノ島鎌倉詣で」がブームになったそうな。

余裕のある人は「お伊勢参り」に出かけたようだが、そこまで長く仕事を休めない人や、経済的な観点から行けない人も少なくなく、多くの慎ましく暮らす庶民にとって3泊4日もあれば行って帰ってこられる「江ノ島詣で」が手ごろな旅行だったということだろう。

そういう如何にも善良そうな江戸庶民が江ノ島の見える対岸の浜辺にたどり着いた時、どんなにキンキジャクヤクしたことか…

そして細くて長い砂嘴(さし)が海を二つに分けて島へと延びているのを見て、おっちょこちよいの弥次さんさん喜多さん辺りは着物の尻を端折って、奇声でも上げながら駆けだしたに違いない。

しかし、江戸を出る時に聞いてきた海の中を歩いて渡れる砂嘴が海中に消えていて、どうやって島に渡るのかと途方に暮れた弥次さん喜多さんもいたことだろう。

……そう、ここは陸繋島(りくけいとう)といわれる島で、潮の満ち引きで砂浜が現れ、陸と繋がったり離れたりたりするところなのだ。

しかし、それでは大潮で潮が引くまで行き来できないことになり、観光地としては成り立つはずもなく、木橋が架けられるのだが、弥次さん喜多さんなら行き帰りのどちらかは好奇心丸出しで砂嘴の上を歩いたことだろう。

 

その砂嘴が昨日、普段目にするものより幅広に大きく浮かび上がっているのに気付き、浜に降りて実際に自分の足で島へと渡ってみた。

と言ったって、特段変わったものではなく、単に波の下に隠れている砂浜が表に出てきただけの話で、きれいな砂が濡れて締まって乾いた砂に比べればしっかりと固かった程度の差である。

ただ、目線がいつもと違うこと、年がら年中歩ける場所ではないところ…そのくらいの差しかないが、そこがそれ、野次馬精神があるかないかの違いで、ここは弥次さん喜多さんをはじめとする江戸っ子伝統の好奇心がムクムクと頭をもたげて…♪

恥ずかしながら、長いことこの界隈に暮らしていて、しかもパトロールの度に並行する橋の上から眺めてはきたものの、実際に自分の足でこの砂嘴に降り立って往復したのは初めての事でございました。

何しろ大潮の日にしか姿を表しませんもので…

いやはやなんとも…こういうことがあるのでございますねぇ…♪

 

ちょっとわかりにくいけど、片瀬東浜から江ノ島に向かって「陸地でつながっている!」


左手からの海と橋の下をくぐった海がわずかな砂浜に行く手を遮られているのが分かる


江ノ島側から対岸方面を振り返るとそれが一層よく分かる


普段目にする砂嘴は馬の背骨のような細々としたものだが、この日は一番狭い所でも20mくらいはあったと思う
潮汐表によると、4月10日は「中潮」で12:37が干潮時間だったから、まさに潮が引き切る寸前だった 干潮時の潮位18cmだったそうな
19、20、21日が「大潮」だそうで、特に21日の大潮の潮位は-6cmだとか 
鎌倉湾の水際戦がはるか彼方まで後退してしまう珍しい光景を目にすることができるのも、この日である
天気が良ければパトロールできるかもしれない♪
 

官能的で美しいS字を描く砂嘴 正午撮影


あの一番狭い所にデッキチェアなんぞを置いて昼寝をするっての…アリだよな♪
目を覚ましたら波の上…なんて


江ノ島のてっぺんにあるシーキャンドルから見た砂嘴 左側の川は境川
15:08撮影だからS字がくっきり見えた時よりも3時間後だったので、砂嘴は波の下にだいぶ消えかかっている


画面中央右寄りに、手前からビル群に向かって小さな三角形が突き出ているのが分かる
その延長線上、向こう側の浜から細く長く突き出した槍の穂先のような、尖った砂浜がこちら側に向かって伸びている
両者の延長線上に差しがあり、波の下に沈みかけている図
 


島のてっぺんに立つ展望台シーキャンドル


正午前、富士山はこのように見えていた


15:00過ぎ、富士山は光の彼方に薄っすらと見えるだけ
 
 

コメント一覧

heihoroku
…そうですか。
64年のトーキョー五輪は高1で横浜港のすぐ近くに住んでいて、江ノ島の橋のことに興味はありませんでした。
でも、立派な橋が架かったのは63年か64年でしょうね。
その後、21年にずれ込んだ2回目の五輪で上下2車線だったものが島方面行きのみ2車線に拡幅され、変則3車線の橋になりましたよ。
で、大会終了後さぞかし渋滞解消に役立っていると思いきや、規制の仕方がこれまで通りなので何の効果も無く、未だに観光シーズンには大渋滞を引き起こして、接続の国道134号にまで影響を及ぼしています。
「ナントカとハサミは使いよう」というけれど…
税金をどぶに捨てたのと一緒。
アミ
オホホ(^_-)-☆🌸
さすがに木造の橋が架けられたのは、明治時代。
80歳の私でも知りません。
でも、昭和24年と言うから、私が6歳。 ちょうど、鵠沼に居たころ、橋げたが鉄筋で、上部が木造の橋ができたのですよ!
51歳の息子は、サザエのつぼ焼きの味を、今でも懐かしく覚えてると言います。
東京オリンピックのために、現在の橋に変わったのでは…。
古い人間で、自分でもびっくりです。 (⌒▽⌒)アハハ!🌞
heihoroku
今、橋は人道橋と車道の2本が分離独立しています。
人道橋の手前に屋台が並んでいたのは90年代もお終いのころまでで、21世紀に入る前に一掃されてしまいました。
横浜駅西口の薄汚い運河べりの屋台のおでんも悪くは無かったけれど、夕日が背に潮風に吹かれながのおでんやサザエのつぼ焼きでの一杯は至福の時だったんですがねぇ…
木道ブリッジはさすがに知りやせんぜ、姉御!
アミ
江の島が日本ののモン・サン・ミッシェルと言われるのも、わかる気がします。
一本の道を見て、そう、感じました。
私も、古い人間ですね!
木造の古い橋、知ってますもの…。
次の屋台が並んでた橋も。 イヒヒ( ^^) _U~~🌞
今は、車も通れる立派な橋と言うより、道路になりましたね!
お江戸の弥次さん、喜多さんもびっくりでしょう…。
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