パトロールの度に橋を渡って島に寄るのだが、通常は参道を登ることはしないで鳥居の手前を左に折れ、家々が密集するかつて漁師町だった細い路地を抜け、ヨットハーバーの先の灯台まで行って海を眺めてくる。
それはコロナの最盛期も変わらずに続けてきたから、江ノ島と言ってもボクにとっては極ありふれた日常の一コマと同じで、何の新鮮さもないし、特別感もない。
しかし、コロナが下火になりかけるころから、この小さな島には入国を制限された外国人の姿こそなかったものの、特に若い人々が殺到して参道が人の頭で埋まる光景を見てきた。
何より東京から近いし、圏央道を使えば北関東からだって訳はない。
コロナに行動の自由を奪われ、ヘキエキした若い人たちが「海が見たいっ!」「海を見に出かけたいっ!」と思うのも理解できることで、そういう彼ら彼女たちに江ノ島は格好の目的地だったようである。
他県ナンバーの車が渋滞を作り、海鮮料理を出す店に人が群がって長蛇の列ができるさまを、いささかあきれる思いで見てきたのだった。
そうだったな、ここは全国的にも知られた観光地だものな…と思わされたのもそんな光景を見ての事である。
そこで、超近場だが久しぶりに観光客になり切って江ノ島詣でを楽しもうか…と言う気になった。
その一端を報告したのが前日に書いた海の中に現れた道を渡っての江ノ島入りである。
今朝はその続報、島内版と言うことで…
「中潮」で現れた砂嘴の上を歩いて島へ向かう
参道の上り口に建つ青銅製の鳥居
江ノ島弁財天信仰の象徴で最初に建てられたのは1747年 その後、1821年(文政4年)に再建されたものが今に伝わっているそうな
左右の柱には再建に協力してお金を出し合った江戸の旦那衆の屋号と名前が刻まれている
発起人は「浅草新鳥越町 八百屋善四郎」と刻まれている
江戸料理では右に出るものが無いと言われた「八百善」じゃないの…
このほか浅草新吉原の遊郭の旦那衆をはじめ、江戸の有力な商人たちの名前がキラ星の如く刻まれている
こういう旦那衆たちこそ、江戸庶民の間に江ノ島詣で江ノ島鎌倉詣でを流行させた仕掛け人たちであるという
瑞心門
いよいよ竜宮城へ♪
ただし今回は階段を上らず有料のエスカレーターを使う
奥津宮まで3つのエスカレータを乗り継ぐことに 理由? そりゃぁ観光客っぽく…♪
辺津宮(へつみや)
この社の隣の奉安殿には国指定の重要文化財・八臂弁財天と藤沢市指定重要文化財の裸弁才天がある
特に裸弁才天は妙音弁財天とも呼ばれ尾上菊之助をはじめとする歌舞伎役者や芸能界で働く人々の絶大な信仰を集めている
なかなか見応えのある弁天様であり、芸能界とは縁のないボクも年に最低1度はお姿を拝みに行くのを楽しみにしている♪
辺津宮境内から見下ろす参道と人道橋など2本の橋
五輪ヨット競技の基地になったヨットハーバー
中津宮
山二つ
ここは道が急激に落ち込んでいて奇異に感じられる場所である
江ノ島はこの場所でねじ切られそうになった?
奥津宮
奥津宮の拝殿天上に描かれた「八方睨みの亀」
江戸の絵師・酒井抱一によって描かれ、1994年に片岡華陽と言う人が復元したそうな
足元にはこういう景色が広がる吹きさらしの場所で昼食
崖にせり出したテラス席 南西の風が強く吹き付けていてちょっと鬱陶しかった
(右端の手は隣席の見ず知らずの若い女性のものデス♪)
一応バリバリの観光客としてだから名物サザエ丼と冷酒
参道を戻らず、人の気配の少ない島の西側の裏道をたどって帰る(この辺りはジモティーならでは)
富士山は光の彼方に薄っすらと見えるような見えないような…
おまけ 対岸の浜は七里ヶ浜 江ノ電と国道134号が並行して走っている 左端が小動岬 右端が稲村ケ崎
小動岬と腰越漁港
義経は腰越の万福寺で面会を許してくれない兄頼朝に「腰越状」をしたため、会ってくれるよう願い出たがかなわなかった