権力というものの怖さを知れば知るほど、その扱いや行使には慎重にならざるを得ないのだという、為政者自身の戒めとも受け取れるエピソードだが、天を畏れるような姿勢・態度はいったいどこに消えてしまったのかと嘆き悲しむしかない。
われらが権力者・アベなんちゃらのことである。
思えば主権者が国民であることなど頭から無視したかのように、安全保障に関する政府の重要な決定の多くを国民の目から隠してしまう目的で「特定秘密保護法」を制定したのを皮切りに、次から次へと憲法を無視した法律や閣議決定を重ねてきている。
憲法9条が禁止しているにもかかわらず、海外での自衛隊の武力行使に道を開く集団的自衛権行使容認についても、本来なら憲法を改正しなければできないはずなのに、それが無理と分かると単なる閣議決定というごく限られた人数だけでこんな重要なことを決めてしまったのである。
先の大戦を引き起こし、膨大な犠牲者を生み出した一方の当事者として、武力の放棄、戦争の放棄を誓い、「国民主権」「基本的人権の尊重」「平和主義」の3大特徴を持った憲法を制定したにもかかわらず、これを変えたいと願う国民などほとんどいないにもかかわらず、憲法改正への道をひた走る。
そのアベなんちゃら一味の手になる改憲草案たるや、これはもう戦前の明治憲法に戻してしまうのかと錯覚させるほどに復古調であり、何より現在の憲法が掲げている3つの特徴を全く無視したものなのである。
そうした精神を持って事を進めているがゆえに、これから国会で審議が始まるのが、戦前の治安維持法を彷彿させる「共謀罪」である。
オリンピックを開くにはこういう法律が必要なんだというのが言い分だが、テロを防ぐ目的なら現在の法律でも十分に可能なのだ。
極端に言えば、人が集まっただけで逮捕してしまおうという法律なんである。戦前の治安維持法はそうだったのだ。何も謀議をしていなくても、拷問攻めでありもしないことをでっちあげ、牢屋につなぎ止めたんである。
中にはひどい拷問が原因で犠牲になった人も少なくない。
そもそも憲法というものは主権者である国民が、国を運営していくにあたって、様々な権限を便宜的に役人や政治家に貸し与えているわけで、その権限の執行に当たっては憲法から逸脱してはいけませんよ、と約束させているわけなんである。
もう少し噛み砕いて言うと、様々な権限を扱う者たち(=権力という言葉で置き換えられる)を縛る道具が現在の憲法であるのに対し、アベなんちゃら一味が描く草案は、これとは逆に国民を縛るためのものに置き換わっているのである。
発想が180度違っているのである。
だから、教育勅語などと言う、天皇を中心に据え、天皇のために存在し、天皇に尽くすのが国民の役目だと教えるようなものを持ち出してきて、これを学校で教えようという方針を閣議決定してしまうに及んで、開いた口が塞がらないンである。
あたかも魔法の杖でも手にしたかのごとく、杖を一振りすれば邪魔者も何もかも消えてなくなり、自分のやりたいように、自分の好きなように事を運べると思い込んでいるような振る舞いである。
主権者である国民を無視し、天をも畏れない、異様な行動としか言いようがない。
こんなことが立憲主義の法治国家でまかり通るというのが不思議でならない。こんなことがいつまで続くのだろう。
クリスマスローズもそろそろ終わりに近づいてきた
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