ゆっくりゆっくり静かに静かに細く細く吸っていき、もうこれ以上吸えないというところまで吸うのです。
そうしたら、今度は吐きます。吐くときも同じです。ゆっくりゆっくり、静かに細く長く吐いて行きます。もう吐く息がないというところまで、吐き切るのです。
そうしたらまた同じことを繰り返していきます。
この時、数を数えます。
吸い始めてから吐き終わるまでを「ひとぉ~つ」、二つ目の息を「ふたぁ~つ」と、吸う息と吐く息をひとつのものとして長ぁ~く数えるのです。
数は10まで数えたら、また1から繰り返します。
静かに細く、ゆっくりゆっくり、深く深く息をしている自分自身の様子を、数を数えながら見つめるのです。これを「数息観」といって禅の修行では極めて大切な修行の方法です。
もし、数えている間に別のことを考えたりしていることに気づいたら、その段階でまた振り出しの1に戻ってやり直してください。
1から10までを繰り返し繰り返し行うのです。
数を数えるだけで、ほかのことは一切考えなくていいのです。
坐禅に通っていると、このように教えられる。
これは簡単なことのようだが、やって見ると案外、難しい。
何も考えずに、1から10まで数え通せないばかりか、細く長く行えという一つの呼吸は意識すればするほど途中で苦しくなって、ままならないんである。
静かに長く吸い、同じように吐いて行くという行為がこれほどまでに難しいとは…
ある日曜坐禅会の時、坐禅が始まって間もなく、外と内を仕切る戸板がものすごい音を立てたことがある。
何事かと思ったが、きょろきょろするわけにもいかず、じっとしていたのだが、終わりに、指導の坊さんが「息が苦しくなて気絶してしまったらしいのですが、苦しくては意味がありません。呼吸は自分の出来る範囲で静かに長く細くすれば良いのです。無理はいけません」と言っていたが、畳に座りきれず、廊下にまで溢れて戸板の前に座っていた参加者の一人が苦しさの余り気絶してしまったようである。
何をバカなことを、と思うなかれ。
すでに世の中や人生をなめきっている私なんぞは、細く長くなんて呼吸はやりたくたって出来ないので、苦しくならない程度に浅めの呼吸で済ますのだが、真面目に通ってきている私よりも若い人の中には、気絶するまでやりとおそうとする人がいるんだから、見上げたものなのである。
世の中には真面目一徹な人がいるものである。
もしかしたら、こういう真面目一方の人たちがアベなんちゃらたちに騙されやすいんじゃないだろうか。
だとしたら気の毒であるし、そういう人を騙す輩を何と表現したらいいんだろう。
さて、呼吸が難しい上に、雑念を持ちこまずに呼吸をし、その呼吸の数を数えることだけに集中するのです、雑念や妄想の類が生じたら、その都度振り出しに戻って数え直してください、と言われれば言われるほど、次から次によくもまあぁ、と思えるほど呼吸とは関係ないことばかりが頭の中に浮かんできてしまうものなのだ。
しかたないので、最近はどんな妄想・雑念の類が生じてくるのだろうと、半ば開き直った気持ちになって、坐っている間中、湧いてくる雑念を待ちかまえるという態度に出ているんである。
50年前の高校生の時に来て初めて坐禅をした時は、横須賀線の踏切のカンカンという警報音が気になったものだなぁ、などはいいほうで、終わったら何食べようとか、斜め前に坐っている若い子の短パンから出ている太腿がやけに白いなぁ、とか、他愛無いことや不埒なことばかり浮かんでくるのである。
我ながら情けないと感じつつ、いずれはこうした雑念・妄想の世界から卒業できるんだろうと思って通い続けているのだが、救いの手と言うのは差し伸べられるものらしい。
一昨日の坐禅会で横田南嶺管長はこちらの気持を見透かすように言ってくれたのである。
「雑念や妄想の類はいけませんと言うけれど、そういう雑念・妄想の類に囲まれているのが人間です。これは仕方ないことですが、良いんです、雑念・妄想に取りつかれていても、いつかはそこから自然と抜け出すことができるようになるものなのです。とにかく雑念・妄想がどれだけ襲いかかってこようとも、坐り続けていれば、いずれは雑念も妄想もない状態で坐っていられるようになるものです」と。
いつのことになるんだろうねぇ。
5年後かなぁ、それとも10年後かなぁ。
楽しみだねぇ。
珍しい緑色のバラ「スーパー・グリーン」=横浜イングリッシュガーデン
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