夏の間休会になっていた円覚寺の日曜坐禅会が再開された。
円覚寺では在家の人々で禅に興味を抱く人のために門戸を大きく開いていて、その代表格は在家の参禅者用に設けられた坐禅道場の「居士林(こじりん)」で、ここでは許されれば何日でも泊まり込んで坐禅が出来る。
ボクの坐禅との付き合いもこの居士林からで、高校3年の夏に10日間ほど過ごしたのが始まりである。
居士林に泊り込んで坐禅する場合は若干の気合が必要だが、このほかに早朝開かれる仰天坐禅会、土曜坐禅会、そして日曜説教坐禅会、日曜坐禅会が定期的に開かれ、だれでも気軽に参加できる。
日曜説教坐禅会と日曜坐禅会の違いは読んで字のごとく、説教があるかないかの違いで、偶数日曜日に開かれる説教坐禅会のうち横田南嶺管長の法話のある第二日曜日の説教坐禅会は坐禅をしない人たちも大勢集まって大変な人気である。
日曜坐禅会は古くから伝わる経典や臨済録、碧巌録といった歴史上の祖師たちが残した語録や法話集を集めた書物を横田管長が提唱(解説)してくれるのを坐禅を組みながらじっと聞く。
まさに修行僧たちが受ける〝授業〟のようなもので、2時間近くは座りっぱなしとなり、気を引き締める意味でもボクはこの坐禅会が好きである。
昨日はたまたま3連休を利用した学生坐禅会が居士林で別途開催されていて、そこに参加している男女学生が大勢参加していた。
そのうちの女子学生の1人が2日目の朝にしてもう足が痛くていたたまれないようで、坐禅を組んでもすぐに足が痛くなるのだろう、足を崩して横座りになるかと思えば、ついには立て膝までする有様。
一時もじっとしていなられない様子でもぞもぞもぞもぞやっている。
それを我々と対峙する格好で並んで座っている最前列でやるのもだから、余計に目立つのだ。
当然、一段高い座に上がって提唱している横田南嶺管長の目にも映っていたろう。
しかし、あの横田南嶺という管長はつくづく優しいのだ。
眉を顰めるどころか、提唱中の盤珪禅師の教えと臨済宗中興の祖とされる白隠禅師の教えを比較し、盤珪禅師がありのままの無理ない態度で修行することを勧めたことに飽き足らず、坐禅中の身動きさえ否定した白隠禅師の厳しさを分かりやすく例示した上で、「もぞもぞ動いたってかまわないし、足が痛くなれば崩したっていいんだよ」という趣旨のことを諄々と説くのである。
この日は両親に連れられた小学生の兄弟も参加していたから、なおさら横田管長は力を込めたんだと思う。
弟の方はまだ1年生くらいの小ささで、ボクの斜め前方に座っていたがほぼ2時間近く、退屈したろうに、ぐずりもせずじっとしていたのにも感心したが、あの管長の対応を目の当たりにして、やっぱり現代の名僧に数えられるだけのことはあるなぁと改めて感じ入った次第。
名僧ってのはいるものなんですな。
昨日は、前の晩に飲み過ぎた上に夜遅く都内から電車で時間をかけて帰宅し、睡眠時間も短かったので眠くてたまらず、休んじゃおうかと思ったくらいだったが、出かけて行って良かった。
今の時期、円覚寺境内の花は極端に少ないが、ようやく探したこれは選仏場脇のフヨウ
(見出し写真は総門と総門を覆うモミジ)
選仏場脇のシュウメイギク