もう2年余り、外食をしたことも無ければ孫たちと食卓を囲むこともない日々が続いている。
唯一、ひと月前の今年の正月はエアポケットにでも入ったかのように、嫁いだ2人の娘が家族を連れてやって来て夢のような賑わいの中で新年を寿ぐとともにワイワイ言いながら食事を楽しんだ。
この例外を除いて、来る日も来る日も飽きもせず、山の神とたった2人切りの差し向かいで食事をしているのだが、気が付けば最近、どういう風の吹き回しか、食事の度に「感謝」の気持ちがふつふつと沸いてきて、「今まで感じたことも無かったのに、一体どうした風の吹き回しによるものだろう…」と不思議な気分である。
わが夫婦は6日違いの誕生日を持つ同い年で、(自分でいうのも変だが代弁者もいないので自分で言うと)性格は至って真面目だが、「原則は明確に、対応は柔軟に」という考え方を柱の一つに据えているので、「硬いことは言わずに楽しもうぜ」の気持ちで暮らしている。
そんなわけだから、窮屈な生活を強いられる毎日でも、せめて食事だけは楽しもうかという気になるし、夫婦そろって左党の仲間だか酒は欠かしたことがない。
酒を飲みながらの食事はどうしたって早く終わらないし、酔いが回るからあれこれ口数も増える。
「夫婦2人きりの食事は味気なくて…」などというボヤキを世間では時々耳にするが、わが家に限ってはそんな心配もない。
料理に合わせてワイン、日本酒、焼酎などなど…休肝日などもってのほかの毎日毎日365日♪
悩みとまではいかないが、少しだけ気にするものがあるとすれば、ごみ収集の瓶類の回収日にわが家だけがごっそり空き瓶を持ち込むことだと山の神は言う。
他の家はというと、ほとんど酒瓶の類は出ないのだという。
毎日どんな食事をしているんでしょうね…と山の神ならずとも心配になって来るが余計なお世話である。
振り返ってみればわが家は山の神があれこれ工夫を凝らしてくれるので美味しい食事にありつけているから、無理して外食しに出かける必要も無い。
強いて言えば揚げたての天ぷらは外食の方がいいなと思うし、美味しいと評判の店で食べる食事も捨てたもんじゃないが、気楽に楽しめる状況でないのだから致し方ない。
見慣れた顔を前にしていたって、互いに杯を交わしながら食べる食事はそれなり以上の味をかもすものなのである。
何よりもうれしいのは食欲があってなんでも美味しく食べられていること。
次においしく飲めること。
そして毎日毎日おいしい食事を提供してくれる人がそばにいてくれること。
その他…あれやこれや…
自然と「感謝」の気持ちが湧いてくる道理である。
円覚寺管長の横田南嶺老師の昨日のビデオ法話のテーマが「食を調える」、毎朝の管長侍者日記のテーマもまた「毎回の食事をどういただくかー命の祭りー」だった。
なるほどと深くうなずかされたのだが、ボクの感じる「感謝」も老師の話の主脈の中に納まる部類の一つのようである。
近所の公園のカワヅザクラが咲き出した
房総半島の沖合から相模湾にかけての一帯で北風と西風がぶつかり合ったせいで「暴走前線」ならぬ「房総前線」なるものが出来たそうで、青空が一転にわかに掻き曇り、富士山の上半身を隠してしまうとともに雪までチラつく変な天気に見舞われた