普通の人はそれで普通に音を聞いて、それが前から聞こえてくるのか左右どちらかからか、はたまた後ろなのか、後ろだったら右側からなのか左側からなのか、遠いのか近いのかなんてことまで特別に考えなくったって分かるものである。
第一、普通の人はそんなことは改めて考えたりしないだろう。ごく当たり前のこととして受け止めているからである。
例えば森に分け入ってウグイスの鳴き声を聞いたとする。
普通の人はそれが左前方15度の方角か、はたまた右後方35度の方角かなんてことは瞬時に判断して即座に鳴き声がした方向に目と耳を集中させるはずである。
したがって多くの場合、さして苦も無くウグイスの姿をとらえることが出来るだろう。
ところがボクに限ってはその鳴き声がどのあたりから聞こえて来ているのか、皆目分からない。
ただただキョロキョロするばかりである。
耳が普通の人と違って一つしか聞こえないのだ。
左側の耳は耳の奥でとてつもなく響くキーンという高音が鳴り響いているだけで、日常的には全く役に立っていないのだ。
ヒトや動物が2つの目と2つの耳を持っているのはそれなりの合理的な理由がある。
即ち、他の動物に食われてしまわないように辺りに警戒すべき脅威が近づくことのないように、絶えず目と耳を使って警戒を怠ることなく身の安全を図っているのだ。
同じく2つの鼻の穴も同様な役割を担っていて、これも目と耳が識別できない脅威を匂いという分野でききわけている。
それぞれ2つづつというところがミソで、つまり、2つのものを使って1つの特定のものを見たり聞いたりすることで、その位置をぴたりと把握できるという優れた機能を得ているのである。
例えばウグイスがどこから聞こえて来ているかなんてことは2つの耳を使えばお茶の子さいさいで、右の耳に届いた時間と左の耳に届いた時間差を瞬時に計算しておよその方角を探知すると、今度は音がした方に耳を向けて意識して音を取集にかかればさらに精度の高い情報が得らるるという寸法である。
目もまた然り。た目標をとらえさえすれば正確な方角と距離を瞬時にぴたりと当てることが出来るのだ。
だからモノモライでも作って片目に眼帯でもしようものならてきめんで、正確な情報が得られなくなった途端に階段ひとつ上り下りするのにオッカナビックリ手すりにでも捕まらないと下りてゆけないという羽目に陥ってしまうのだ。
耳が一つだとボクのように音が聞こえてくるのが前なのか後ろなのかさえ判然としないのだから、キョロキョロしているうちに簡単に襲われて食われてしまうだろう。
目と目の距離はそこそこ3~4センチ、耳と耳の間だってせいぜい14~15センチ程度だろう。
たったそれだけしか離れていなくったって、ちゃんと別々が機能して情報が収集できれば2つの情報を分析することで正確な位置と正確な距離が瞬時に分かるのである。
レーダーなどはこの機能の応用であって、もとはと言えばヒトと動物の専売特許だったものなのだ。
まぁそういう高性能な装置に不具合が生じると、例えば左耳に当てた受話器を左肩で押さえて左手を遊ばせ、指にたばこを挟み、右手でペンをつかんでメモを取るなんて記者サンみたいなカッコイイことをしようにもできない相談で、ボクは仕方ないから右の耳に受話器を当て、それを右肩で押さえて右手でメモを取るというような窮屈でアクロバットみたいなことをするしかなかったんである。
もっとも左手はは遊んでいるので自由にたばこを吸ったりハナクソをほじくったりもできたけどね。
走行中の電車の車内でボクの左側に坐った人から話しかけられた時が厄介で、ほとんど聞こえないのだ。
身体をなるべく相手に向けて、聞こえている右の耳が相手の方に向くようにしても限度があるというもので、頓珍漢な応答をして随分と失礼を重ねて来たことかと、忸怩たる思いにも駆られるが、親しい人なら耳に手を添えたり、場合によっては席の位置を変ってもらうようなこともあったが、両脇が知り合いなんて時はお手上げで、肩身の狭い思いをしたものである。
今だって同じだが、ジジイになると「あいつも少しボケてきたな」くらいにしか思われなくなってきたろうから、面倒がなくてよろしい。
しかし、俗世間はそれで済んだとしても、やっぱり大自然に浸るようなときはやはり不自由さは否めない。
と言ったって全く聞こえない人もいるのだから贅沢は言えないのだ。それにもう半世紀もこの状態なのだ。
それに正確な距離や方角が分からなくったって、別に猟師じゃないんだから困らないしね。
円覚寺居士林のウメ。あまり手入れをしないためか、枝は自由闊達に伸び放題なところがいかにも在家の禅道場らしい
最新の画像もっと見る
最近の「随筆」カテゴリーもっと見る
最近の記事
カテゴリー
バックナンバー
人気記事