大方丈の中に入って驚いた。
これまで並べられていた椅子は大方丈に隣接する小書院に移され、さらに奥の大書院まで開け放たれてスペースが確保されている。
完全にコロナ禍以前の状態に戻っていた。
冒頭、進行役の坊さんが「今回から規制を緩め出来るだけ元の状態まで戻すようにしました。ただし、感染防止に十分お気を付けください」と言っていた。
ネットでの申込制は当分続けるらしいが、定員制かと思っていたら、それも撤廃したらしい。
コロナ以前の横田南嶺管長の法話の日は大方丈の畳の上やいす席はもちろん、板張りの廊下や奥の大書院の一部にも立錐の余地がないくらい、500人前後の善男善女が詰めかけていたものだった。
今回は廊下や大書院にまで人があふれるということは無かったが、300人を超す人が集まったと思われる。
サッカーや野球、昨日始まった大相撲だって観客の入場規制は無くなっているし、寺が開く催しも然り…ということなのだろう。
ただ、円覚寺は慎重で、コロナ以前は法話の前と後に般若心経などいくつかのお経を一斉に唱和したりしたものだったが、つばや飛沫が飛ぶようなことはいくらマスクをしていてもリスクが高いと判断したのだろう、いきなり管長の法話に入って行ったのは少し物足りない気がした。
背筋を伸ばして経を唱えると「さぁ、聞こう」という気持ちが整っていくもので、いわば段取りの一つと言っていいのだが、いきなりでは話を始める管長もやりずらいんじゃないかと思う。
まだまだ完全に元に戻ったわけではないのが現実である。
法話の中身は横田管長が好んで引用する仏教詩人・坂村真民の詩を紹介しながら仏教の心を説く内容だった。
実はボクが坂村真民を知ったのは2014年に円覚寺の坐禅会に参加するようになって横田管長から聞かされたのが初めてで、以来何冊か詩集も買って読むほどになった。
だから、内容的には耳新しいことではなかったが、これからも時々話題にして坂村真民を広めるのだと「宣言」していた。
今回は代表作として9編ほどを紹介していたが、その最初に上げていたのが「念ずれば花ひらく」の一篇。
念ずれば
花ひらく
苦しいとき
母がいつも口にしていた
このことばを
わたしもいつのころからか
となえるようになった
そうしてそのたび
わたしの花がふしぎと
ひとつひとつ
ひらいていった
そして、法話の後は希望者だけ残って坐禅会が開かれるのだが、やっぱり明りの消された薄暗い堂内でする坐禅はまた格別な味わいがあって、久しぶりの感覚に浸ってきた。
実は最近あまり坐っていないものだから、やはりぎこちない部分があり、腰骨が定まり切れず、従って背骨が真っすぐに伸びなくて苦労した。
家でも時々坐って腰骨を立てて背筋をピンと伸ばす癖を付けた方がよさそうだ。
なんだか情けない話だが、これが今のボクの現実。
堕落しきっちゃっているところが出たってことで、いささか恥ずかしく、忸怩たるものがある。
8:15分過ぎの総門前
山門越しに仏殿を見る
開場直後の大方丈 畳が大方丈で手前の椅子が並んでいる場所が小書院
開始10分前の8:50になるとだいぶ席が埋まって来た
如意庵の竹林に朝の陽が当たる
黄梅院門前の坂村真民の詩(横田管長揮毫)
黄梅院のロウバイ
境内最奥部の黄梅院に日が当たるのは遅く、他より寒そう つくばいには氷が張っていた
坂村真民の詩集に関しては「自選 坂村真民詩集」(致知出版社)、「坂村真民詩集百選 はなをさかせよ よいみをむすべ」(横田南嶺・選、致知出版社)などが手に入れやすい。