西側の道路に面したフェンスのつるバラ(ローゼンドルフ・シュパリース・ホープ)の剪定作業をしていたら、学校から帰って来た隣家の1年坊主に声を掛けられた。
「おじさん、バラ切っちゃうんですか ? 」
「うん、切ってるけど、伸びすぎたところを切って、その後、肥料を沢山上げておくとバラがよく休めて5月になって奇麗な花を沢山咲かせてくれるんだよ」
大人に対してはぶっきらぼうだが、子どもには丁寧に答える。
文芸賞にその名を遺す文豪の名前をもらった1年坊主は「ふぅ~ん」とあいまいに頷いたので、どこまで理解したのか定かではなかったが、次の質問にはいささか面食らわされた。
「そのバラはお父さん(おじさん)のものですか ? 」
「ン ? このバラはうちのバラだけど…」
「お父さんのものじゃなければ母さんのものですか ? 」
そこまで聞かれてようやく質問の趣旨が飲み込めた気がして「いや、おじさんの家のバラもそこのヤマボウシの木も青い色の車も家のもので、おじさんとおばさんが別々に持っているんじゃなくて2人のものだよ」と答えたのだった。
正直言って、この答えにも満足して納得してくれたそぶりは見せてくれなかったが、多分この1年坊主の家では洗濯機と冷蔵庫、赤い色のパソコンはお母さんのもの、ドイツ製の車はお父さんで銀色のパソコンもお父さん…という具合に所有権が明確化されているんじゃないかと思った。
そしてあのおもちゃとあのおもちゃはぼくのもので、あれとあれは弟に上げたから弟のもの…
所有権意識というか、モノの帰属ということについて目覚め、はっきりさせないと落ち着かないような気になる年ごろなのだろうなと、物欲も無くなったジジイは目から鱗が落ちるような気分でありました。
それにしても今の若い人の家庭教育というものが、所有欲や物欲を肯定するような教え方をしているのだとすると、ちょっとボクには抵抗感が出てくるんだよなぁ。
「これは誰それのもの」「あれは僕のもの」と子供に帰属をはっきり認識させるのは責任を持たせる教育的意味合いが強いんだろうけど、それ以上のものじゃないと思う。
これが高じてくると「欲」に結びついて行く。
欲は生きる力の源でもあるという説、ああいう人になりたい、こういう暮らしがしたい…という思いが努力の源泉となり、人をして向上させていくのだということもまた事実だろう。
でもまた一方で、物欲に始まって金銭欲やら所有欲、名誉欲、権力欲、etc…。「欲」さえ抑制的であれば世の中の争いごとの大半はなくなるんだろうけど、なかなかそうはイカの何とやら。
モノの豊かな国に暮らしていると、欲ってのは際限がなくなるんだろうね。
そこは理解できるな。良い悪いは別として…
「おじさんちのバラはネ、おじさんとおばさんの家のものだけど、この道を通って『あぁ奇麗に咲いてるなぁ~』と思ってくれる人、君も含めてみんなのバラだよ」
そう言う気持ちはあったんだけど、ちょっとわかりにくいかなぁと思って言葉にはしなかった。
実際にそう言ってあげればよかったな。
段葛を通って鶴岡八幡宮に行ってきた
きれいな空だった
今から10年前の2010年3月10日未明に吹いた強風によって倒壊した樹齢1000年と言われた大イチョウの株元から生えたひこばえの内の姿の良い1本を残して成長を見守っているのだが、こんなに大きく育ってきている