まだ海外渡航が自由化されていなかった時代、つまり今のように簡単には海外を旅することが難しかった時代…
1969年8月2日、ボクらは商船三井が運航する巡行見本市船さくら丸に乗り込み東京・晴海ふ頭を出港した。
行き先はハワイを経てアメリカ西海岸。
ホノルル、ロサンゼルス、サンフランシスコ、ハワイ・ヒロに寄港、太平洋を往復して横浜港大さん橋に戻ったのは37日後の9月7日だった。
行き帰りの船中では経済学者の伊藤光晴、宇宙物理学の藤田良雄、アメリカ文学の中谷健一、亀井俊介をはじめ、崎川範行、島崎憲一らの学者、渡辺紳一郎、梶谷義久ら評論家、そして主催した朝日新聞社から論説顧問の森恭三、朝日ジャーナル編集長の和田教美らそうそうたるメンバーを教授陣に「アメリカ」「アジア」「ジャーナリズム」などのテーマを中心にした講義が行われていた。
高度経済成長期、首都圏では新聞配達をする人手が集まらず各新聞社は配り手確保に四苦八苦していたのだが、朝日新聞社が大学生を対象に一年間朝夕の新聞配達をしてくれたら洋上大学船を仕立ててアメリカまでの太平洋横断旅行に連れていく、という企画を立てたのだ。
この魅力的な企画の第一回の募集に応募して1年間の新聞配達を終えた仲間約400人が晴れの海外渡航に出発したのだった。
あれから早、半世紀。
その50周年記念同窓会が東京日比谷のプレスセンター10階のレストランで昨日、開かれた。
5年前の45周年の集いでは100人を超えていた参加者が、今回は70人足らずと全参加者の6分の1にしか達せず、やや寂しさはぬぐえなかったものの、特に親しかった男女6人で2次会にも繰り出して旧交を温めてきた。
このうち女性2人とは実に50年ぶりの再会だったが、名前を告げられて初めて表情から往時の面影を見つけてようやく理解できるほど。
会場ではほかに女性から「お久しぶり」と声を掛けられても誰だかわからない人もいた。
もっともそういうケースは男性でも同じで、「やぁ!」と握手を求められてもしばらくは誰だったか思い出せず往生したのは、やはり半世紀という短いようで長い時間の経過を感じないわけにはいかなかった。
次は55周年に会いましょうなどという声が飛んでいたが、大概の人は後期高齢者になっているわけで、事務方を別に頼んで準備をゆだねるとかしなければ、開催すらおぼつかないんじゃないかと心配になってくる。
ボクたちに熱心に講義をしてくれた先生たちはほとんど旅立ってしまっているし、事務方で支えてくれた朝日新聞の人たちも90歳を超えて存命の人もいるが、会に参加するほどの体力はないようで、これも時の流れを感じさせて寂しいことではある。
ボクだって酔っぱらって遅い時間に1時間余り電車に揺られて家まで帰って来るというのがだいぶ億劫になりつつある。
電車の窓にのぞく十六夜の月を眺めながら、そう言えばアポロ11号が人類初の月面着陸に成功して宇宙飛行士が月面に降り立ったのもボクらが出航する直前だったことを思い出し、同時に航海中無数の星が瞬く夜空を見上げて息苦しいほどだった思い出は残っているが、あれだけ大騒ぎした月を見た記憶が残っていないことも不思議と言えば不思議だなぁと思うのである。
見出し写真はイラストレーターの柳原良平さんの筆による「さくら丸」をあしらった記念コースター
日比谷公園に面したプレスセンター10階のレストランが会場