喪失感という言葉に置き換えてもいい。そういうものに襲われてしまっている。
焼き場の待合室で遺体が骨になるのを待つ間、そして骨を拾い終わった後、数人でターミナルまで出て1回目の「偲ぶ会」を開いて献杯しつつ思い出話に花を咲かせるたびに、その喪失感と寂寥感は増していくようである。
焼き場で聞いた息子さんの挨拶では2月12日に愛犬が死んだそうだ。
生前、愛妻と愛娘を落雷で一瞬のうちに失ったとき、生き残って戻ってきた愛犬の頭をなぜながら「2人同時に逝ってしまってはいかにも寂しかろうと、こいつだけは帰してよこしたんだと思うよ。だからこいつをみとるまでは頑張らなくちゃいけないんだ」と話すのを聞いた。
その愛犬の死を息子さんは伝えていないという。
向こう岸について、尻尾を振って出迎える愛犬の姿を見て理解し喜んでいることだろう。
もともと気性の荒いことで知られる甲斐犬のオスの「秋太」はボクにもなついてくれて、帰ろうと立ち上がるとボクの足先を繰り返し繰り返し踏んずけるのである。
大先輩には「帰るなっていう意味だよ」と言われたが、そうもいかないのでムリムリ帰って来たが、不器用で武骨な愛想の振りまき方しかできなかったがやんちゃで可愛い奴だった。
自宅の庭の桜が咲くと「どお、満開になったから見に来ない? 」と誘いの電話がかかってきたものだ。
盃で桜の花びらを受けてみせると「おぉ! 風流だねぇ」と満足そうな表情を見せてくれた。
「ねがわくば 花のもとにて 春死なむ その如月の 望月のころ」という西行の歌を口にしてこんな歌もありますねぇと言うと「いいねぇ、ボクもそう願いたいねぇ」と決意を込めたように言っていたものである。
最後の努めと自認した愛犬の後に旅立つということ、願っていた通りに満開のサクラの下で、しかも満月の晩に――という2点において有言実行だったことが何やら大先輩の人生を貫いた意思の強さを象徴しているかのようで、これもまあ強烈なインパクトをボクに残してくれたんである。
そしてそれぞれ深い交流のあった人たちが語る思い出を耳にするにつけ、知り得なかった一面に気づかされもして「ヘェ~、そうだったのか」「ほぉ~」と痛く感心させられることばかりを胸に刻んだのだ。
そういう一つ一つのエピソードが積み重なっていけば行くほど、やりきれないような寂寥感が募っていくのである。
秋太! もう寂しくないな……
ミツバアケビの花がもう咲き出した
妻が玄関にミツバアケビを活けてみた
青みがかったニラが咲き
また違う種類のスイセンが咲き出し
こちらはニリンソウ
タチツボスミレも庭の至る所で咲いている
ブルーベリーも花をつけだした
そして伽羅奢にツボミが! 比較的早咲きなのだが…この分だと今月末か遅くとも大型連休前半には花開きそうだ
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