パソコンの前に置いてある円覚寺の卓上カレンダー。
月替わりで、それぞれ横田南嶺管長の筆で禅語が書かれていて、3月は「春風吹而花發」。
端っこにものすごく小さな文字で「しゅんぷうふいてはなひらく」とフリガナがふってある。
素直に読み下せば文字通り、春になって暖かな春風が吹いて花が開いた、という生命賛歌のような意味だろうと思う。
しかし、禅の大本山が出しているカレンダーにわざわざこの言葉を持ち出したということは、そうした素直な読み方とは違った禅の解釈というのがあるのではないか。
例えば、似たような文言に唐の詩人・白居易の「古原草を賦し得て別を送る」という詩から引用された「春風吹又生」というのがある。
一部を抜粋すると「離離原上草 一歳一枯栄 野火焼不尽 春風吹又生」という具合に使われていて、京都・妙心寺のホームページによれば「はなればなれになる日、この野原の草も年々枯れたり生えたりする。冬になって枯れた草を野火が焼き尽くしても草は根まで燃え尽きることはなく、春風が吹いてくるとまた芽生えてくる」という意味で、『いのち』の再生に対する賛歌としてとらえられている、と解説している。
一方で、禅の修行の世界では別の解釈を与えるのだと言って、妙心寺のホームページは次のように記している。
「それは『生ずる』ものを何と捉えるかの違いです。修行によって心をすっかり浄化させ、焼き尽くしたと思い、煩悩が無くなったように見えても、その根源には焼き尽くすことのできない煩悩がしっかり残っている。ゆえに、不断の努力なしには煩悩の減除は困難であると解釈している」
とまぁ、もっともらしいことが書かれているが、そこは懐の広い禅宗のこと、肝心の白居易自身の意はなへんにありや…と振り返り、「どちらも深読み過ぎやしませんか?」「白居易は自然の摂理としての遷移を述べているだけで、そこにこれといった寓意は込められていないのではないか」と述べつつ、大切なことは、それらの解釈を固定化することなく自身の見解を求め続けることだ」と結んでいる。
話を元に戻して最初に掲げた「春風吹而花發」。
この言葉をどう解釈したものか、禅語的な意味合いとは?…とググってみたのだが、見つからない。
したがって、どういう文脈の中にこの6文字が含まれているのかも分からない。
調べている過程で「春風吹又生」を見つけて読み、冒頭に書いたように、あぁそうか、素直に自然の摂理を表したものと受け止めればいいのだな、と納得したのでありました。
花は咲き出しているけれど、一時の夏のような陽気に戸惑ったことがウソのように、このところ吹いてくる風はとても冷たい。
ウグイスさえ「時にあらず」と未だに声も立てない。
春風猶未到鎌倉
円覚寺黄梅院の山門
最も奥まった山裾に位置するこの塔頭の春の訪れは遅い
まだマンサクが咲いている
マンサクの花期は長いのか…
ボケ
黄梅院山門脇の横田南嶺管長の筆になる坂村真民の詩