先週の日曜日にもこの黄梅院の庭を覗いたのだが、その時は気づかなかったから1週間の間に花開いたらしい。
マンサクは葉も何もない裸木の枝々に黄色の紐切れがぶら下がったような、花と呼ぶにはいささか手抜きな感じのする造作のようにも感じられ、冬でも色彩が残る暖地ではけっして特別な花ではない。
しかし、雪に閉じ込めらえたモノトーンの世界に暮らす北国の人々にとってこの黄色の花は格別で、春を心待ちにする心の琴線に触れる花でもあるようだ。
他の花に先駆けて「まんず咲く」ことから、「まず咲く」を経て「マンサク」と呼ばれるようになったという名前の由来がまた春の訪れを心待ちにする人々の喜びを表しているようで、素晴らしい。
雪景色の中に咲くマンサクというのはまだ見たことがないが、花の名前の由来を聞くたびに、何か気持ちを揺さぶられるような感じがするのだ。
そしてマンサクの花を見るたびに「あの詩」が思い浮かんでくる。黄梅院の境内でもそうだった。
まんさくの花が咲いた と
子供達が手折って 持ってくる
まんさくの花は淡黄色の粒々した
目にも見分けがたい花だけれど
まんさくの花が咲いた と
子供達が手折って 持ってくる
まんさくの花は点々と滴りに似た
花としもない花だけれど
山の風が鳴る疎林の奥から
寒々とした日暮れの雪をふんで
まんさくの花が咲いた と
子供達が手折って 持ってくる
丸山薫の「まんさくの花」である。
もう1遍は「白い自由画」という詩。
「春」という題で
私は子供達に自由画を描かせる
子供達はてんでに絵具を溶くが
塗る色がなくて 途方に暮れる
ただ まっ白い山の幾重なりと
ただ 真っ白い野の起伏と
うっすらした墨色の陰翳の所々に
突刺したような疎林の枝先だけだ
私はその1枚の空を
淡いコバルト色に彩ってやる
そして 誤って まだ濡れている枝間に
ぽとり! と黄色の一と雫を滲ませる
私はすぐに後悔するが
子供達は却ってよろこぶのだ
「ああ まんさくの花が咲いた」と
子供達はよろこぶのだ
丸山薫は昭和20年に山形県の月山の山懐に位置する西川町岩根沢に疎開し、戦争が終わって世の中がある程度落ち着くまでその集落で代用教員を務めた。
マンサクの花が登場する詩はこのほかにもあるが、いずれもこの豪雪に閉じ込められる集落の代用教員時代に子供たちと接するうちに生まれた詩である。
この詩を読むと、マンサクの黄色が脳裏に鮮やかに蘇ってくるのはもちろんだが、それ以上に雪原だろうが疎林の奥だろうが、元気いっぱいに飛び回っている子供たちの姿がどうしようもなく懐かしく感じられてならない。
そして目ざとく見つけた「春の印」を先生にも教えようと、そのひと枝を手折って一目散に報告しに来る…
こういう育ち方をした子供たちが長じて、目立たないところであってもしっかりと日本を支えているのだと思う。
この岩根沢に丸山薫記念館というのがあり、山形の友人に連れて行ってもらったことがある。
代用教員をしていた小学校は校舎こそまだ壊されずに残っていたものの、既に廃校になってしまっていた。
しかし、戦後70年余を経てなお、この記念館を中心に小中生を対象にした詩のコンクールが毎年続けられていて、記念館に掲示されていた入選作品の詩の数々を見て、その感性のすばらしさには驚くばかりで、丸山薫がまいた一粒のタネが立派に根付いていることに感動さえしたものだった。
実は丸山薫は妻の祖母の弟なのだが、そうしたこととは関係なくマンサクの詩が心にしみる。
円覚寺黄梅院で咲き始めたマンサク
同上
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heihoroku
ひろ
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