書は管長お気に入りの仏教詩人・坂村真民詩集からの抜粋で、9月は「意義と息」という題の詩だった。
不思議なことだが、生まれてくる赤ん坊は「おぎゃぁ~」と言う泣き声とともに、だれに教わるわけでもなく1人で息を始めながらこの世に生まれ出てくる。
以来、何憶何十億回と静かに穏やかに、時には荒っぽくハアハアゼイゼイさせながら、それでも息を絶やすことはない。
しかも、生きていくうえでとても大切な行為なのに、これについて真剣に学ぶことはほとんどない。
第一、重要な教育機関である小学校にだって「呼吸の仕方」なんてカリキュラムは存在しないのだ。、
「何か腹の立つことがあったら深く息を吸いなさい。何度も深呼吸してみなさい。怒りが収まるから」と教えてくれた先生も確かにいた。
実際、小学校時代の昼休みか何かに他愛のないことからクラスの中で大げんかになって騒然としたことがあり、職員室から飛んできた担任の先生にそう諭されて悪ガキ一同、鎮まったことがあった。
それ以外に学校で呼吸法を習った覚えはないのだ。
それが長じて坐禅をするようになると、最初に教えられるのが座り方と呼吸の仕方である。
座り方は結跏趺坐(けっかふざ)と半跏趺坐(はんかふざ)の説明なので省くが、呼吸については「細く長ぁ~く吐いていき、吐き切ったら今度は吸う時も細く長ぁ~く吸います。この時吐き切るまでひとぉ~つと数え、吸う時にふたぁ~つと数えるのです。これが10まで行ったらまた元に戻ります」と教えられる。
いわゆる「数息観」と呼ばれるもので、自分の呼吸する姿を見詰めて坐る禅の修行法の一つだが、これが慣れないとなかなか難しくて、かえって呼吸が乱れたり息苦しくなったりしてしまって慌てることになるのだ。
街を歩いていて何かにつまずいて慌てる人は限りなくいるだろうが、自分がしている呼吸が何かの拍子に乱れてしまって大慌てするなんてことは、ほとんどの人は経験がないはずである。
ボクも無論そうだったのだが、数息観ってやつをやってみると慣れないうちはホントに息でつまずいてもがいたりして、苦笑させられるのだ。
呼吸というものは案外難しいものなのだということを思い知らされることになる。
振り返ってみれば自分の呼吸が乱れている時は周囲にろくなことが起きていないもので、たとえそういう場面に出くわした時でも呼吸を乱さないようにできれば落ち着いて行動ができるというものである。
何も考えずに吸ったり吐いたりしている呼吸を侮ってはいけない。
写真に掲げた仏教詩人の坂村真民さんは97歳まで長生きしたのだ。
昨日の坐禅会では最初、雷鳴と共に猛烈な雨が降り出し、大方丈の大屋根の瓦をたたきつける雨音が囂々と響いたが、管長の登場を促す大太鼓が鳴り始めると不思議なことに鎮まってしまった。
この雨で猛暑と少雨で干からびきっていた境内はだいぶしっとりしてきた。山門の屋根もまた然り
その山門の下では雨を避けたのか、スケッチに来た一群が何もこれ程まで寄り固まることもあるまい、と思うほど一塊になって
スケッチブックを広げる姿がおかしかった。
仏日庵の開基廟の茅葺屋根も生気を取り戻したよう
円覚寺境内に目ぼしい花はなく、久しぶりに県道を挟んだ反対側の東慶寺に寄り道してみると…
まず最初に目についたのはウメの古木に寄りかかったセンニンソウの大きな塊だった
トラノオとオミナエシの色調の淡さが秋を感じさせ
トラノオの群落は残暑を和らげる涼しさを演出し
オミナエシも負けじと自己主張をしている
檜皮葺の門の屋根には先ほどの雨で生気がよみがえり
足元ではホオズキの赤が際立つ
花の寺の東慶寺にもまだ本格的な秋はやって生きていないようだったが、さきがけのホトトギスが咲き出し
ヤブランの薄紫色も目を引いている
もうちょっと夏には頑張ってもらわないと…
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