平方録

没頭するということ

2時間半かけてアーチに絡ませている、つるバラの「伽羅奢」のせん定誘引作業を行った。

このバラは道路に面した位置にあるから、通りがかりの人にも良く目につく場所にある。
普段はあまり通らないような人でも、毎年5月の開花時期になると、目の保養にわざわざわが家の前を通っていく人までいるようである。
時折、わぁ~きれい!という通行人の声を漏れ聞くこともあり、そういう時は正直言って鼻が高いのである。

それもこれも、この時期のせん定誘引作業をしっかりやるからであろう。
バラは手をかければかけるほど、美しく、華やかに咲き競ってくれるものなのである。
そういうご褒美を想像しながら作業するので、少々のトゲのひっかき傷など一向に気にならぬ。
むしろバラの僕に対する親愛の情というか、厚意さえ感じるのである。

何を馬鹿な、ということなかれ。堀辰雄は「風立ちぬ」の中で、軽井沢の森の中を散歩している主人公の身体に、あまり好かれない虫やら毛虫やらを頭上から降りてこさせ、普通の人なら悲鳴を上げるような場面で「森が自分に好意的なのだ」とつぶやかせる場面を描いた。
それと相通じる感性といってよいだろう。
手こずれば手こずるだけ、うっとおしければうっとおしいだけ、それを相手の厚意と受け止める感性というものが、確かに存在するのである。
気の持ちようなのだ。

これで面倒なつるバラはすべて終了し、後は5月の開花を待つばかりである。2月に寒肥をたっぷりとやるから、大いに英気を養ってきれいな花をたくさん咲かせてもらいたい。

ところで、せん定誘引の作業をしている時というのは、まったく、何も考えていないと言ってよい。
ただひたすら、これは残そう、これは切ってもいいだろう、などと作業に没頭しているのである。
こういう感覚というのもまた好きである。
余計なことは一切頭に浮かんでこないのだ。
世の中のしがらみからくる「あんちくしょうめ!」とか、なんであの時ああいう態度に出てしまったんだろうなどと言う後悔やら何やら、俗事のとるに足らないことなどとは無縁な世界に浸れるのである。

畢竟、坐禅の世界で「無」になれ、「無我の境地に至れ」などと言われても、なかなか難しく途方に暮れるのだが、こうした作業に没頭していると、「無」という境地に案外近いのではないかという思いが、時たま頭をもたげるのである。
まぁ同じであるわけがないのだが、一つのことにわき目もふらず没頭するということは、それはそれで十分に意味のあることではないかと考えている。
ずっと以前のことになるが、わが家からほど近いところに版画家の棟方志功が住んでいた屋敷があり、それが美術館になっていて、棟方志功が何者かに取りつかれたように彫刻刀を握って制作に励む姿を映したビデオを見たことがある。
圧倒される思いで見たのだが、あの姿だってまさに無我の境地のように思えるのだ。

話がオーバーになってしまった。自分のしている作業が同じだと言っているわけでは決してない。



「伽羅奢」に時季外れの花がついていたのを花瓶に生けた。「ブラッシングアイスバーグ」にもつぼみがいくつかあったので、これも取り込んだ。今年の秋が天候不順で、秋バラが咲かなかった代わりに「冬バラ」となって表れているようで、健気なものであるが、これでは疲れてしまうだろう。ゆっくり休んで初夏に備えてもらいたいのである
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