「夏至日作」という五言古詩がある。
中唐の権徳興という詩人の作で訳すと「夏至の日に作る」という意味になる。
璇枢無停運
四序相錯行
寄言赫曦景
今日一陰生
「璇」は北斗七星の第2星。「枢」は同じく第1星のこと。
「赫曦」は光り輝くさまの意。「景」は太陽。
「璇と枢との星は運航を止めることなく 四季はかわるがわるめぐり行く
ちょっと申し上げるが 光り輝く太陽よ 今日からは陰の気が生じるのですよ」
という意味になる。
真にそのとおりで世間的には文句のつけようもない真理なのだろうが、ボクにはちょっと気に入らない。
何もわかり切ったことを改めて念押しするように面と向かって言うこたぁ~あるめぇにって思うのだ。
本人だって回りだって、みぃ~んな分かっているんだよ、そのことは。
なんでぇ、それを。嫌みな野郎だぜ。
底意地が悪りぃ~ったらね~ぜ…ったく。
確かに昼間の時間が一番長い昨日の夏至を過ぎて、今日からは日脚が毎日少しづつ短くなっていく。
それは仕方がないことなのだ。
何だって始まりがあり、やがて終わりがくる。永遠というものはどこにも、何一つもないのだから。
夏大好き人間からすると、何が好きかって先ず第一は日の長さなのだ。
ここまでは本当に楽しませてもらった。喜ばせてもらえた。ルンルンの日々であった ♪
なかなか夜が明けず、明けたと思ったらサッサと沈んでしまう冬の太陽の頼りなさといったらない。
しかも斜めに弱弱しく射してくる光では地上を温めるには不十分で、寒さに閉じ込められることになってしまう。
その極めつけが夏至の正反対の冬至なのだが、ボクにとって夏至が大事な1日であるのと同時に冬至の方にも魅かれるものがある。
何故かって、冬至を迎えるということは即ち翌日からは日脚が伸びていくってことなのだ。
そこに希望を見出して次にやって来る寒さのピークを何とかやり過ごすのだ。
まさに一陽来復という希望がなかったらボクは厳冬を乗り切れないだろう。
これから成夏がやって来る。
それはそれで大好きなのだが、裏腹に日脚がどんどん縮んで行くのを感じる寂しさは人に言ってもなかなか通じないところがもどかしい。
好きで好きでたまらないんだけれども、どこかに覚めたところがあって、本当は身も心も投げ出してしまいたいくらいなのにそれが出来ないような…
だから盛夏の朝や午後のふとした時間帯に一瞬でも秋の気配が漂ったりすると、ボクはそれに敏感に反応してしまう。
眼にはさやかに見えねども…などと言う表現があるが、ボクもそういうものには鈍感でないようで、すぐに気付いてしまうのだ。
気付いてしまえばそれはそれで夏との別れを覚悟しなければならず、悲しく寂しい思いをしなければならない。
夏至とはそのターニングポイントであって、いわば微妙で繊細な気持ちが再び頭をもたげかける日でもある。
だからこそ、傷に塩をすり込むような「夏至日作」の念の押し方が気に入らない。
あぁ梅雨明けが待ち遠しい。
見出し写真も含めて横浜イングリッシュ―ガーデンのアジサイ