鎌倉・長谷の大仏さんは雨の日も風の日もそして嵐の日さえ、あるいは烈日が照り付ける真夏にもまったく動じることなく、天空を屋根と頂いて静かに坐り続けている。
像の高さ11.39m、台座を含めた高さは13.35mにもなるから、大仏さんの敷地の周囲を歩けばその美男のお顔はどこからでも拝見できそうに思う。
ところが県道側は高いコンクリート製の塀とさらにその塀の上に生い茂る常緑樹に視界を遮られ、中をうかがい知ることはできない。
北側、つまり大仏さんの背中側にも細い道路があるが、ここも県道沿いと同様な塀と常緑樹の茂みが邪魔して見えないし、南側は山門などの建物とやはり常緑の木々が視界を遮ってのぞき見を許さない。
まぁ、のぞき見という行為そのものが一種の犯罪的な響きを持っているし、そもそも感心出来る行為ではない。
それでもこの行為が「のぞき見」として国語の辞書に正々堂々と載っているくらいだから、われわれニンゲンはこの行為と切っても切れない関係にあるということは確かだろう。
大辞林には「小さな穴やすき間などからこっそりと様子をうかがい見ること」とあり、ネット辞書には「他人の私生活などを知ろうとすること」と身もふたもないような説明がついているから、何をかいわんやである。
「こっそり」というところが卑劣さを際立たせるようではないか。
まぁ、そんなこんなで、すき間を作るから善良な市民をして背徳的な行為に走らせるのであって、ゆめゆめホトケ自らが犯罪的行為を誘うようなことがあってはならない…という配慮?なのかどうか、かくも厳重な目隠しとなっているのだろう。
ところが、上手の手から水が漏れるというのか、地元住民に対するささやかなサービスのつもりかは知らないが、県道と反対側の地元の人が行き交う生活道路の側には高い塀はなく、常緑の木々のすき間から大仏さんの横顔がチラッとのぞく場所がある ♪
これとて、ボォ~ッと歩いていたのでは見落とすくらいに小さなすき間で、その気になってのぞこうとしなければ分からない。
あくまで「のぞき見したい」「中をのぞき見たい」というわが世俗の側の下心いっぱいの意思が必要なのだ。
そこに用意された小さなすき間…これこそがホトケの慈悲ってものなのかもしれない ?!
何よりもちゃんとお顔が拝見できるような絶好のすき間なのであって、これが肩の一部だったり胸の一部しか見えなかったら…と思うとひとしおである。
ありがたいすき間なのだ。
何より、ボクはここを通る時、大仏さんの横顔をチラッと見て通るのが楽しみでもある。
自転車の時はわざわざ速度を落として確かめるし、場合によっては止まって‶ちゃんと〟のぞき見していくのだ ♪
素通りなんてしたらバチが当たるに違いないものな。