見出し画像

平方録

ミナトのドンの真意

貿易立国の日本にとって原材料を外国から買い入れて国内に運び入れ、出来上がった製品を海外に輸出する場合、なくてはならないのがミナトである。
横浜港は神戸港と並んでその一翼を担う東の横綱だった。

ミナトが港として機能するためには船の荷の積み下ろしに従事する人々の存在無くしては成り立ちえない。
明治、大正、昭和を経て物流は大いに合理化され、今は大きなコンテナの積み下ろし作業だけで荷役作業が片付くまでに進化した。
これに伴ってバラ積みされてくる積み荷に群がって人力で運ぶ日雇いを含めた港湾労働者の存在も必要のない時代になった。

港湾労働者が活躍した全盛期には波止場波止場に夕方になると酒を売る屋台が並び、日銭を手にした労働者たちは得体の知れない肉を焼いた串やスジ肉の煮込みなどとともに安い焼酎をあおって肉体労働の疲れを癒したものだ。
そして蛇の道は蛇で、そうした波止場の出入り口付近の目立たないような倉庫の一角や事務所か何かのつもりで建てた掘立小屋のようなところに、一杯ひっかけた労働者たちが潜りこむ姿は日常のものだった。
その小屋の中は丁半バクチをはじめとする賭博場で、何のことはない、日銭を稼いだ労働者たちの中には稼いだばかりの金を屋台の焼酎とバクチ場の掛け金に使い果たし、波止場を出る時は朝来た時と同じ無一文になってスゴスゴと帰って行く者が大勢いた。

こうしたミナトの荷役作業と作業が終わった後の労働者の息遣いを仕切っていたのが神戸は山口組、横浜ではF企業だった。
念のために書き添えておくとF企業はいわゆる「反社」とよばれる集団・組織ではなく、堅気の会社である。
もう二昔前のことになってしまうが、F企業の会長に来し方の半生記を語ってもらったことがある。
「乱暴な荒くれ者たちを堅気の人々が暮らすところに出して自由にさせれば必ずトラブルが起きる。警察に厄介になる連中が必ず出てくる。それを防いで波止場から出さないようにしたのが私のおやじですよ。〝ミナトのおやじ〟と呼ばれていました」
何のことはない、払った日当は大して時間も経たないうちに支払った元の場所に戻る仕掛けになっていたのだ。
かくして少なくとも横浜の治安は維持されてきたのだというのが、〝おやじ〟の後を継いだ息子の言い分でもあった。

その息子が今89歳という高齢になって尚、ミナトのドンと呼ばれるリーダーとして未だに港運協会会長などの要職を担い、ミナト全体に目を光らせている。
そして横浜市が突如、山下公園に隣接する山下ふ頭を候補地に名乗りを上げたカジノ誘致に真向から異を唱え、「ミナトをバクチ場にするなんてとんでもない」と大反対を訴えているのだ。

政府の中枢にあってカジノ推進の中心人物である官房長官・スガとも太いパイプがあり、ましてや横浜市の女市長の後援会長も務めた男の真意がどこにあるのか分からない。
来し方、バクチ場の総まとめ的な存在であった総大将の態度としてはいかにも腑に落ちないものがある、と言ったらFさんに失礼かもしれないが、やはり気になるところだ。

邪推ならいくらでもできるが、やっぱり本音が知りたい。
とは言え、それもまたなかなか難しそうである。
筋金入りの人だけに変な形で矛を収めるようなことはよもやあるまいと思っているが、今後を注視していきたい。
ともあれ、その本心は「とばく反対」という主張そのものズバリなのだと額面通りに受け止めたいと思う。

とにかくわが故郷にバクチ場を作るなんて、ボクも許せない。

夏休みもあとわずか。行く夏を惜しんで波と戯れる(見出し写真も茅ケ崎東海岸)

怪しい積乱雲もどきがいくつも現れ、ときどきゴロゴロなっていたが結局降らなかった

江ノ島の防波堤で海風を浴びて涼んでいるとスズメが1羽ボクの至近距離までやって来て周りを行きつ戻りつして顔を覗き込まれた

じっと見つめられる

たった1羽。お前ははぐれスズメか

何度もじっと見つめられた
ボクの周りにスズメが近寄って離れないのに気付いた知らないおっさんに「アンタ,好かれてるよ」と冷やかされた
名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「随筆」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事