と言ったって高々小一時間、庭をはいつくばっただけだが、手を付けたところはきれいになるから張り合いが出るというものである。
草取りの良いところは、普段は地面から170センチ余り高いところから見ている景色が、5、60センチ、場合によっては3、40センチまで地面に近づくのだから、植物の根元をじっくり観察することができるし、根っこ付近でうごめいている小さな生き物たちにぐっと近づくことができる。そして土の匂いが直に伝わってくるのが嬉しいのだ。
横浜イングリッシュガーデンのガーデナーたちからプレゼントされた膝当てをつけるから、四つん這いの姿勢がとれるので姿勢的にも楽チンなんである。
膝を地面に付けないで草を抜くことになると、足を窮屈に折りたたむことになるので、しびれて来るし、痛くもなる。したがって、そうそう長い時間はやっていられなくなるはずである。その意味で膝当てはスグレモノなのだ。
草取りと言えば昨年末94歳で亡くなった臨済宗円覚寺派の末寺・伊豆函南の修善院の安藤宗博和尚のことが真っ先に思い浮かぶ。
どんな寺で暮らしていたのか、わざわざ訪ねて行ったほどなのだ。
特別に親しかったわけではなく、単に円覚寺の日曜説教坐禅会に年に1度登壇して、とぼけた口調でいろいろ説教を垂れるのを聞いていただけの縁である。
口癖のように「草取りが趣味で、何時間でもやっていられる」という言葉を聞いて、変な坊さんだなぁと思うと同時に親しみを感じていたんである。
だから亡くなったと聞いて、いったいどんな地面にはいつくばって草を抜いていたのかと興味がわき、出かけてみただけの話である。
帰り道に三島駅前で名物の黒おでんに「白隠正宗」という、臨済宗中興の祖とされる白隠禅師の名を冠した地酒で献杯したのが、いろいろな意味で味わい深くて、未だに舌に残っているのだ。
献杯だけなら今すぐにでも出かけていきたいなぁ。
安藤和尚は草取りの魅力について一言も語らなかったが、「何時間でもやっていられる」という言い回しに特別なものを感じたし、禅宗の坊さんがそこまで言うというのだから、坐禅を組むのと同じような集中力が得られるのかもしれない、などと勝手に思ったものなのだ。
ボク自身は地べたにはいつくばって草を抜いていると、他のことは全く頭をよぎらず、ただただ草を抜くことだけに集中できるところが魅力だなぁと思っているんである。
いってみればボクなりに、すぐに没我の境地に入っていけるのである。
だから、庭をきれいにしようというより、くだらないことを考えるのをやめよう、考えたくない、と思う時に草を抜きはじめると、つまらないことはすぐにどこかへ吹き飛んでしまうんである。
一種の精神統一が草取りという比較的安直な方法で、地面に這いつくばるだけで可能になるという訳なのだ。
時々カナヘビやミミズが目の前に現れて歓迎してくれるが、今の時期はやぶ蚊が飛び回る前のちょうどいい時期で、何者にも邪魔されず集中できる絶好の草取り日和が続くんである。
きっと地面に顔を近づけると言うこと、その姿勢がいいんだと思う。直立歩行をするようになって、あの姿勢を捨てちゃったからね。たまには原初に戻ってみることも必要なんだ。
もう間もなく風薫る5月だ
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