いつものように午前4時に起きてベランダに出て見ると、辺りは霧に包まれて周囲の山がぼんやりと霞んでいる。
頭上には73%の凸月がぼぉ~っと浮かんでいて星はほとんど見えない。
2、3日前までの「寄らば切るぞ ! 」みたいなピリピリした寒さはすっかり影を潜め、暖かい空気が体を包む。
しかし、だからと言ってあの春独特の艶めかしさを感じる暖かさという訳でもなく、空気自体も「まだ2月だぜ !? 」と言わんばかりの半信半疑ぶりなのが伝わって来る。
来し方を振り返ってみると、春の艶めかしさというのはすっかり安心しきって無防備に身も心も投げ出してなんら差障りがないと信じ込ませる一種の解放感とともにやって来るものなのだ。
そこらあたりに今一歩の躊躇があるのは、この時期致し方ないことかもしれない。
…と、書き連ねてはみたが、寝床の中ははっきり言って春そのもので、目覚まし代わりの4時のNHkニュースが流れ始めても、ぬくぬくした布団から離れ難いのは、寒さの中に放り込まれるのを阻止しようとする真冬のそれとは違って、この心地よさにもうしばらく浸っていたいという未練の心に他ならない。
シュンミンアカツキヲオボエズ ショショニテイチョウヲキク…
もうこうねんサンはこういう詩を作って行く春を惜しんだのだが、今はまだ暦の上での春。おっかなびっくり、半信半疑の春。
ただ冬から春へと移ろう季節に感じる解放感は身体も心もしっかり覚えていて、今朝はそれが明らかに蘇ってきたことは間違いがない。
寒の戻りってやつがあるにせよ、季節は確実に1歩前に進んだのを実感する。
それにしても今朝の霧はやっぱり朝霧と呼ぶべきだろうか。
ボクは霧を目にした途端、ごく自然に「夜霧だぁ」と思ってしまったが、それは辺りがまだ真っ暗なせいでそういう表現が浮かんだんだと思う。
しかし、考えてみれば午前4時は明らかに朝だ。時計の文字盤を見るにつけ、時間的には夜霧と呼ぶにはやっぱり違和感がある。
ならば「朝霧」かと言えば、それもちょっとなぁ…と違和感を感じてしまう。何せ、辺りは真っ暗なんだから。
まぁ理屈っぽく書けば、自然科学的には朝霧で、文学的には夜霧でも許される、ってところだろうか。
なまめかしい春の情景は朝って言うより夜のとばりが降りていなくちゃ様にならないし…
ん ? 朝の艶めかしさってのはナシだっけ ?
そんなことも無いような気がするし…
こういう時は原点に返るべし。
三省堂の大辞林によれば「艶めかしい」にはおおむね2つの意味がある。
一つは「異性の心をそそるような魅力がある」「あでやかで色っぽい」
二つ目は「若々しく美しい」「みずみずしく美しい」「しっとりとした上品な美しさがある」
徒然草に「神楽こそ艶めかしくおもしろけれ」という表現があり、平安時代以降の語で女流文学に好んで使われた。未熟で不十分なふるまいがさりげなく奥ゆかしく感じられることから、二つ目で使われる「しっとりした上品ー」の使い方が生じた…とある。
…ってことはやっぱり、朝の艶めかしさってのもアリってことか。
鎌倉・長谷の光則寺。花の寺として有名。隣の長谷寺では一部のウメが真っ盛りを迎えているが、低くて細い尾根を挟んですぐ隣に位置するこの寺のウメたちはまだお休み中
(右下の自転車はわが愛車)
門前のウメもこの通り
本堂の屋根の形が美しい
枝垂れウメはあと少しで開きそう
天然記念物のカイドウの枝を支える棚が青竹を使って整えられていた
少し咲き始めた紅梅の奥にはピンク色の枝を持つ木が枝の色を濃くしていて華やかな雰囲気が…
本堂脇の池のほとりの椿の巨木にびっしりと花が咲いて、それは見事