「お知らせがあります。横田南嶺管長による提唱は今日が最終回です。3月は休会とさせていただき、4月からどのような形で再開できるか検討しているところです。決まり次第ホームページでお知らせします」
青天の霹靂とは、このことだ。
昨日の日曜坐禅会が終わる寸前、担当の和尚の口から思わぬ言葉が飛び出した。
えっ ! と、一瞬息が詰まる思いだった。
奇数日曜の午前8時の開門時間に合わせて開かれてきた円覚寺の「日曜坐禅会」が突如幕を下ろすなんて…
誰がそんなことを予測し得たろう。
偶数日曜日は遠方からの参加者のことを考慮してのことだろう、1時間遅れの午前9時から開かれていたのが「日曜説教坐禅会」。
こちらは坐禅の前のほぼ1時間、和尚の説教・法話を聞き、その後、坐禅する人と写経する人、何もしないで帰る人に分かれ、坐禅組は40~50分間の坐禅をしていた。
特に第2日曜日は横田管長の法話が聞けるとあって、毎回500人を超す善男善女が大方丈を埋め尽くす盛況ぶりを呈している。
法話中は畳に胡坐をかいて坐ったり、膝を崩したり、自由な姿勢で聞いていればいい。
坐禅は法話の後に行われるから、坐禅に興味のない人も大勢集まってくる。もっとも、横田管長が登壇しない第4日曜日の方はそれほど人は集まらないが…
で、奇数日曜は横田管長が提唱する古の祖師方の語録や、経典の提唱を坐禅しながらじっと聞くスタイルなものだから、ピリピリした空気に包まれる。
そういう厳しいスタイルだから、真冬ともなれば参加者は60~70人しか集まらないなんてこともある。
しかし、提唱される内容は、偶数日曜日の法話が必ずしも坐禅とは関係ない日常のことなど親しみやすい内容に対して、奇数日曜日の提唱は直接坐禅に関するものばかりだから、それを聞くだけで修行の真似事にもなるし、禅とは何かを考えるうえで大いに参考になる。
実は、ボクはこのスタイルの坐禅会が好みだったのだ。
それが無くなってしまう…!?
嘘だろぉ~ ‼ と叫びたい気分だ。いつも通ってきている顔見知りの参加者にとっても同じ思いだったろう。
思い返せば高校生の夏に思うところあって初めて円覚寺に参禅し、10日ほど坐禅をさせてもらって以来、気になっていた坐禅だが、完全リタイアの2年前の2014年の9月から「とりあえず」の気持ちで日曜日の円覚寺に通い始めたのだった。
当時の横田管長はまだ若く、50歳になったばかりで随分若い管長だなぁと感心したのを覚えている。
当時の日曜坐禅会では中国唐時代の黄檗断際禅師の教えを弟子が書き記した「伝心法要」という書物を提唱されていた。
その提唱スタイルが大いに気に入って、以来足を運び続けているのだ。
横田南嶺という老師は日本の仏教界、ひいては宗教界で今、最も注目を集めている宗教家の一人だそうで、隔週で提唱が聞けるなんて贅沢の極みなのだ。
本山では僧堂師家として雲水たちの修行に心血を注いでいるし、臨済宗が設置している京都の花園大学の総長も務め、東京白山の寺の住職も兼務しているほか、提唱やら講演に全国から引く手あまたで、大忙しらしい。
そういう意味では日曜日は貴重なんだろう。
それが理由かどうかは分からないが、そうだとするなら致し方ないような気もする。
当たり前のように通っていた奇数日曜日の坐禅会だが、諸行無常とはこのことで、川の流れを見詰めながら物思いにふけったカモノチョウメイさんを思い出す。
来月以降の空疎感に今から呆然とする思いである。
坐禅が始まると雨が激しくなった
あっという間に水たまりができ
景色が滲んじまってらぁ…